ごきげんよう!さわこです

 

 

神は、強制手段はお用いにならない。
愛こそ、人の心から罪を追放するために、神がお用いになる力である。
愛によって、神は高慢を謙遜に、敵意と不信を愛と信仰に変えられる。

 

 

ユダヤ人は、自分の努力によって完全の域に達しようと営々刻苦して来たが、ついにそれができなかった。彼らの義では、決して天の御国に入れないことを、キリストはすでに語っておられた。
 
キリストは、天に入るすべての者の持つ義の性格を、山上の説教で語って来られた。すなわち、神が完全であられるように、あなたがたも完全な者となれ、と仰せになった。

 

 

律法は、神の御品性の写しである。あなたの天の父のうちに、神の政府の基礎である原則が完全にあらわれるのを見ることができる。

 

 

神は愛である。愛と光と喜びは、神からすべての被造物に流れ出る。与えることが神のご性格である。
 

 

 

神はご自分が完全であると同様に、私たちにも完全になるようにと仰せられる。
 
神が神の領域で完全であられるように、私たちは、私たちの小さな領域で完全な者となることができるのである。

 

 

もし、神の子であれば、あなたがたは神の性質を受けついでおり、神に似た者となる。
 
あなたがたは神の子どもであって、その聖霊によって生まれたのであれば、神の生命によって生きる。

 

 

キリストには、神の徳がかたちをとって宿っている。イエスの生命は、私たちの死ぬべき肉体にあらわされる。
 
こうして、魂を生き返らせられるので、主の律法に調和するようになる。
 
キリストの愛を通して、「律法の要求が肉によらず霊によって歩く私たちに満たされる」のである。(ローマ8:4)

 

 

マラナ・タ
エレン・ホワイト著「祝福の山」より
マタイ5:8「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
 
「完全」について理解したくてまとめてみました。
追記
すべてのものは、成長の段階で完全である。
芽は、芽で。双葉は双葉で。
芽吹いた芽に、花が咲いていないと、
双葉に、実が成っていないと、
責めたり、要求したりするだろうか?