ごきげんよう!さわこです。
いつものように信仰の友が、古屋良子さんのメッセージを送って来てくれました。
そのメッセージからデボーションとなりました。
ルカ8:25
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、
『湖の向こうに渡ろう』と言われたので、船出した。
渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。
突風が湖に吹き下ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。
弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです。』と言った。
イエスが置きあがって、嵐と風をお叱りになると、静まって凪になった。
イエスは『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。
弟子たちが恐れ驚いて、『いったいこの方はどなたなのだろう。
命じれば風も波も従うではないか』と互いに言い合った。
人生の嵐が襲う時、助けて下さるイエス様を忘れて自分の力で戦おうとしてしまうことはないでしょうか。
しかしイエス様は私たちが真剣にイエス様に助けを求めるのを待っておられるのです。
弟子たちが助けを求めた時にイエス様が言われた言葉が『あなた方の信仰はどこにあるのか』でした。
信仰が無くなってしまったとは言わず、『何処かへ行ってしまった』と言われたのです。
信仰はあるのですが、ここにはないのです。
即ち、嵐の中で信仰がなければ、信仰を働かせなかったのです。
ルカ8:25を初めて読んだ時のことを覚えています。
今から30年以上も昔になりますが、その頃も私は心の内に嵐を抱えていました。
私の船は小舟であって、すぐに揺れてしまうのでした。
感受性が強くて繊細である、と言っても度を越せば個性を通り越して病的かもしれません。
しかし、私は、病的だとは自覚もしないで、環境や他者の人格のせいにしていました。
それで、あらしを静めることができるわけもなく、私の心は疲労感が溜まっていました。
身近な人間の言葉や行動が、きっかけとなって、突風が私の心に吹き込んで来るのです。
イエス様の弟子の一人になったばかりの私はこの物語の中にすべり込みました。
恐怖でおののく弟子の一人が私でした。
現実の嵐が、私の心をさらに追い詰めてしまうことがたびたびでした。
「ああ、イエス様、来てください。
あなたさまなら、私の心の嵐を静めることがおできになります。」と祈っていました。
弟子たちは、嵐で船が沈没しておぼれてしまうのではないかと恐怖心に捕われてしまったのです。
恐れは神様に委ねきる事の出来ない結果生じるものです。
試練が来ると、今までの信仰が何処かへ行ってしまい、肝心な時に御言葉を活用することが出来ないことがあります。
常に、御言葉を信仰をもって聞かなければ、身に着いた信仰とはなりません。
私は、信仰を頂いたにもかかわらず、いつまで経っても状況が変わらないのは、信仰が身についていないからなのだろう。
信仰を用いて生きていないからなのだろう?だから、私には、いつまで経っても平安がないのだ・・・これが、私が不信仰であることの証拠なのだ。イエス様にお従い出来ていないことの証明なのだ。そのように、自己批判をしてしまうと、自己を肯定できません。
正しい意味での自己否定は、正しい意味での自己肯定へと変化を遂げます。
それは、神様の御業です。奇蹟です。
イエス様は、父である神様に委ねておられたので、嵐の中でも平安でおられたのです。
真の救いは、状況からの解放ではなく、神様と共にいることによって平安が与えられるのです。
私達の心の中にも突風が起こる事がありますが、イエス様を私達の心の中に、人生の中に迎え入れた時、人生の嵐もおさまり、心はイエス様の愛の内に休まるのです。
私は本物のイエスさまを心の内に来ていただいているのだろうか?
イエスと名乗る偽物のイエスが私の内に勝手に入ってきているのではないだろうか?
私の妄想は広がります。
私の舟に乗っているのは、本当のイエス様なのだろうか?
ヨハネによる福音書1章1節
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
この言は、イエスさまだと聖霊様の導きによって理解できていました。
聖書を読んで、読んで、読んで、何度も読み通さなくては、本物の御言葉であるイエス様を知ることができない。
という発想、想いを神さまは与えてくださいました。
本物のイエスさまを求める私は荒野に追いやられて、イエス様が昇天なさる前にお約束された聖霊を私に家庭教師としてそばにおいてくださいました。
祈り、聖書を読む、聖書通読によってその日の主題が示される、それに基づいて、聖句から聖句へ。
いつの間にか、早寝早起き、「朝まだ来」の二時間三時間がイエスさまとの時間となりました。
聖書の聖句はイエス様、律法はイエス様、福音はイエス様、ユダヤの祭りも、祭儀も、犠牲の生贄も全部イエス様。
イエス様抜きには聖書は成り立たない。
この世という人間の舟は嵐が来ると沈んでしまいますが、イエスが乗っておられる舟は決して沈む事はありません。
どんな嵐の中にも私達と共におられる神様を常に覚えるならば、イエス様の信仰を持つことができるのではないでしょうか。
マラナ・タ
聖書の中に没頭することによって、私はその日その日の平安を頂けるように変えられました。
「私の信仰は、イエス様の内に在ります」と言える信仰者になりたい。
私の住所は、イエス様気付、でありたい。