ごきげんよう!さわこです。
「安息日を喜び、忠実に守ることは、私たちが何者であり、誰に属しているかを示す重要なしるしとなります」
10日間の祈りの最終日のテキストにありました。
ここからデボーションが始まりました。
1、私たちは何者であるか?
・神に造られた者
・あらかじめ神に愛されている者
・にも関わらず、自分の選択の間違いによって、
神から迷い出して神から離れて行った者(それを罪という)
2、誰に属しているか?
・本来は創造者である神に属していたはずです。
・神から離れた時点で、自動的にサタンからの影響を受けるようになり、サタンの陣地に引き込まれてしまうことになる者も出て来た。
・神に再び属する者になるためには、神に帰らなくてはならないが、人間は自力で、人間力で、神の元に帰ることはできない。
3、では、どうすれば創造主である神のもとに帰ることができるのか?
・聖霊の神は、帰るように促し、気づかせてくださる(悔い改め・立ち帰り)
・さらに、正しく神に立ち帰るためには、キリスト様が必要。
キリストに属することで新生させて頂ける。
キリストには代えられません。を讃美しました。
4、ここで、まだ、一つの重要事項が残っている。
神様に立ち帰ることと、安息日を覚えることとどういう関連があるのだろうか?
安息日を喜び、忠実に守ることは、自分の存在の意味であるどなたに属しているかという問題に関わってくるらしいのだ。
何故、イエス様の復活を記念する日曜日ではないのか?
なぜ、すべては終わったとイエス様が叫ばれた十字架にお架かりになった金曜日ではないのか?
金曜日・土曜日・日曜日の三つの選択肢がある。
聖書では、土曜日を安息日と書いている。以下のページを開いて確認するとよい。
(創世記2章1-3節。出エジプト記20章8-11節。申命記5章12-15節。)
初代教会の時代には、安息日は守られていた。
キリスト教が、ローマ帝国に公認され、国教となって、やがてローマカトリックによって日曜日に変えられてしまったのだ。
そして、日曜日を礼拝日とする聖日となって久しい。長い歴史がある。それは伝統であるとみなされるようになる。
宗教改革の時にも礼拝の日が「安息日」に戻ることはなかった。
セブンスデー・アドベンチストキリスト教会が土曜日を安息日として遵守しているので「ユダヤ教ですか?」と聞かれたこともあるし、「異端のキリスト教会ですね?」と怪しまれたこともある。
日曜日を聖日として守っている教会の方が大多数であるので日曜礼拝が伝統的であるとされてしまうからかもしれない。
では、創世記・出エジプト記・申命記には、どう書いてあるのか?それをどう読んで来たのか?
そこが、欠落しているのではないだろうか、と私は思うのですが。
マラナ・タ
私たちは、毎日、自分に問いかけよう。
私は何者であるか?
私は誰に属しているか?
毎日のデボーションで確認することはそれではないのか。