ごきげんよう!さわこです



「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第一5:16-18)



秋の祈祷週が始まりました。
安息日の午後、信徒たち10名が食堂に集まって、祈祷週の読み物「主のあかし人となる」二日目の「苦難の時にあるあかしーヨセフの生き方から学ぶ」を輪読して分かち合いました。



「苦難の時にも、ヨセフは『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。』(テサロニケ第一5章の16-18節)ができていたんじゃないか。要するに神様は、私たちがどんな時にもこの三つを実践することを望んでいるのではないだろうか。」
との発言がありました。

それに対して、
「それって、言うは易し行いは難し、じゃないかしら。」

「神様が望んでおられることだから、頑張ってやろうとしても、悪い状況の中では、よっぽどの強い信仰者じゃないとできないよね。」

「だから、『イエス・キリストにおいて』と書いてあるんですよね」

「人間にはできないことでも、イエス・キリストにある恵みによってできるように神様がなしてくださる、という神様の宣言、お約束なんですよね」

こうした発言が出て来ました。
そこで、テサロニケ第一の手紙5章を開いて、16-24節までを全員で読み返しました。



ここからは、帰宅してからの個人的デボーションです。
テサロニケ第一の手紙5章16-24節
ここは口語訳ではなく新共同訳の方が私は好きです。
16節17節18節上句まではとても有名です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。」
18節の下句から24節までを出来れば全部あわせてこそ、この三つのお勧めのフレーズは完成されます。

18節下句「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

19節 “霊”の火を消してはなりません。

20節 預言を軽んじてはいけません。

21節 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。

22節 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

16,17,18上句の「…しなさい」が実行できるのは「聖霊によって」であり、預言を重んじることからであると明言されています。

さらに、神から与えられた意志の力を用いて「全てを吟味し、善悪を識別し、取捨選択するようにとまで勧告されているのです。

イエス・キリストが望んでおられることは、「人間の力でできる」のだと侮ってはならないのです。
自力で自分を聖くすることはできません。

23節の上句「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」ですが、口語訳と新共同訳の違いに目を向けたいと思います。



新共同訳では「聖なる者としてくださいますように」と翻訳されており、口語訳では「きよめてくださるように」とあえて漢字を使っていません。

きよいという漢字は、「清い・潔い・浄い・聖い」少なくとも4通りあります。そこには、何らかの訳者の意図があるように思えるのです。



「聖」とはについて考えてみます。
先ず、
♪聖なる、聖なる、聖なるかな。三つにいまして一つなる。神の御名をば朝まだ来、起き出でてこそほめまつれ♪
との讃美歌を思い出して歌ってしまいました。

次に、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」とあることが思い出されて聖書で確認しました。

イザヤ書6章2節3節でした。セラフィムが6つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた、という情景が描かれています。

そしてセラフィムが互いに呼び交わし唱えていることばが、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」なのです。

聖なるとは神に属する言葉なのです。新共同訳での「聖なる者としてくださいますように」とは、「神様に属する者としてくださいますように」と読むことができると思います。「きよさ」は神様の属性なのです。



23節の続きをお読みします。
「また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り」とあります。

口語訳では「また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って」となっています。

神様がそのように守って下さるので、「何ひとつ欠けたところのない者」となり得るのです。

神様が「完全に守って」くださると書いてあります。

これは神の守りによる神の恵みによるものでありますから、「神の恵みすなわち神の義」が示されていると思います。

私たちは自分の力や努力では自分を「きよくする」ことはできないのです。

三位一体の神ご自身によって「きよめてくださる」ことによってきよくなれるからです。

また、「きよめてくださる」を新共同訳では「聖なる者としてくださいますように」と訳されています。



23節のまた続きを読みます。
「わたしたちの主イエス・キリストの来られる時、非の打ちどころのないものとしてくださいますように」

ここを口語訳では「わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」

非のうちどころのない、責められるところのない、つまり「完全」ということではないでしょうか。

わたしたちが「完全」になるのは、神の恵みによって神の義によって、つまり、御再臨のときに「完全」と見なされていることが明らかになるのではないでしょうか。



ご再臨のときに、「不完全な人格」が、突然「完全な人格」に瞬時変えられるという意味ではないのです。

私たちが「完全であるのか、不完全であるのか」誰にもわからない。
神にしかわからない。

「完全」という言葉に神経質になって振り回されることのないようでありたいと私は思います。



24節には「取り越し苦労して思い悩むことはないよ」とも読める言葉が書かれています。

「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」

25節はパウロの懇願が書かれています。
「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください」と。



マラナ・タ
共に祈る祈祷会の大切さを実感いたしました。
その感動を抱いて帰宅し、個人的デボーションにつながりました。