ごきげんよう!さわこです

パソコンの中で探し物をしていました。

肝心の物は見つかりませんでしたが、こんな記録を見つけました。

 

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母のこと  2017年5月10日

 

母の死を恐いという方がおられました・・・

よくわかります。

私も母の死が怖かった。

父の死を想像するよりも、自分の死を想像するよりも、

母の死を想像するだけで、鼓動は激しくなり涙がこぼれました。

 

私は特別に母親っ子だったわけではありません。

小学生までは、母にたびたび叱られました。

訳を聞かれても、理由を聞かれても、

母の怒った顔を見るだけで怖くて、言葉が出てきませんでした。

引っ込み思案な私は、土地の言葉で、自分の説明ができませんでした。

土地の言葉、すなわち方言なのですが、

小さい頃から使い染めている言葉なのに、

うまく組み立てられないのです。

 

母が嫌いだったわけでもありません。

母は私をほめてくれましたが、

それは、私にとっては

ことさらほめるようなことでもなく、

なんだか、白々しく聞こえさえしたのです。

 

ですから、褒められても喜びを表わさない子でしたから、

母はほめ甲斐もなく、さびしく思ったことでしょう。

 

中学生になったころから、

いわゆる共通語を喋れるようになりました。

学校の先生方が、方言を用いなくなったのでしょうか。

私の語彙も増えてきました。

すると、自分の気持ちや考えていることが喋れるのです。

 

言葉を組み立て、文章化することができるようになると、

母にも自分の思いをスムーズに話せるようになりました。

もちろん、要所、要所や語尾には方言を入れて語るのです。

 

そして、母のことを怖く思わなくなりました。

 

結婚してからは、なおさら、良い関係となりました。

私は、母に、

知らないことをきちんと「知らない」と言える。

そして「教えて」と頼める。

私にとって、母は主婦事典のような存在でした。

母も、娘に知らないことは「教えて」と尋ねてくる。

 

嫌味も皮肉も言わない。

見下したようなことも言わない。

奥歯に物の挟まったような言い方はしない。

いつも穏やかな直球でした。

だから、母の言葉の裏を読む必要などなかったのです。

 

母の知らないことを、私が知っていても、

嫉妬しない、過剰なほめ方もしない。

「あら、そうなの。なるほどねえ。」

「そうなのよ。」

と、自然な情報交換でした。

 

世の中に出ると、

「知識のひけらかしはみっともない」

「知ったかぶりは、やめなさい」

思いもがけない反応に驚いたのでした。

 

母との会話パターンを当たり前に思っていましたが、

世の中には、母のような反応を示さない人々もいたのでした。

 

激しい感情の波のない、母と娘の会話は

いつも穏やかで、ユーモアもあって、

しみじみと笑いの絶えない時間でした。

 

弟と私。

母の愛を取り合うこともなく、

仲の良い両親のもとで、私たちは育ちました。

予期しない人生の試練にも

その激しい波をも、穏やかに受け止める日々。

 

ですから、母の死が怖かった。

 

ところが、母が高齢になって、

認知症との病名はつきませんでしたが、

物忘れが多くなりました。

母もそのことがわかっていて、

今までリードしていた母が、私を頼るようになりました。

 

「ねえ、教えて。わたしどうしたらいい?」

「そんなこと、わたしに聞いてもわからないわよ。あなたのいいようにして」

 

いつからか、母は相談相手にならなくなり、

母の百科事典も開かれなくなり、

インターネットで調べるようになってきました(笑)

 

神様はそうして、私が「母離れ」できるように備えてくださったのでした。

 

2014年の春、早朝。

母が突然、死んでしまいました。84歳。

 

弟からの電話をとって、

「わかった、今からそっちに行く」

 

受話器を置くと、祈りはあふれました。

「主、与え。主、とりたもう。主の御名は ほむべきかな。

神様、母を与えてくださってありがとうございました。

母を与えてくださった神様に母をお返しします。

神様は、一番いい時期に、母の地上人生に幕を引いてくださいました。

ありがとうございました。」

 

まもなく、母の日。

母と父の写真の前にカーネーションを飾ろうかな。

 

マラナ・タ

そもそも、ブログを開設した理由は、「母のあかし」を紹介したかったからでした。

本日、母と同世代の信者さんのご葬儀がありました。

参列しながら、母よりも10年長く生きられた方のことを偲びつつ、母を思い出しました。