ごきげんよう!さわこです
今朝の6時半
「無敵の信仰」88.89ページよりデボーションです
無限の恵みが全ての人に与えられており、その最大限にまで救いをもたらしている。
しかし、そのような無限の救いを持っていない人がいたとしたら、それは何故なのか?
それは、ただ単に、その人が既に与えられているものを受け取っていないからだ。
罪が支配したのと同じように、今度は、罪の力に対抗して1人ひとりを支配し、罪がもはや力を持たないようにするために、無限の恵みが、全ての人に与えられている。それが、神の計画なのだ。
それを理解するためには、人間の努力や熱心や、賢さではできない。
神(聖霊)の導きによらなければ、理解できない。
理解できたとしても、聖霊の神の導きに素直に従わなくては信じることができない。
知的理解のままで止まってしまう。
神学理論として、数ある思想の一つとして止まってしまう。
そのために、これらのような反論を受けることもあるだろう。
「それはあなたの信心にすぎない」
「あなたの思い込みにしか過ぎない」
「宗教の一つに過ぎない」
「あなたにはあなたの信心があり、私には私の信心がある。人はそれぞれなのだから」
「あなたの信仰は認めよう。だから、あなたは他の人の信仰も認めることが、紳士的ではないか。成熟した人間のあるべき姿であろう」
「他者の信仰を、神由来では無いと決めつけるならば、それは独善である」
これらは、如何にも成熟した人間の考えのように聞こえる。
しかし、悲しいかな、
こうした反論を、創造主であり贖い主である神は、説いてはいない。
「わたしをきちんと知ってほしい」「わたしを受け入れてほしい」と願っておられる。
この反論を大事に持っている人々に対して、神様は、手放すようにと訴えておられる。
そうした人々に神は「あなたはどこにいるのか?」と探してくださっている。
真実の神を求めている人を、神は地上を見回して、見つけ出してくださる。
神の真理を、愛を、受け取ろうではないか。
それを選択するのは人間の自由意志であるけれども、その自由意志に日々語り掛けて、その決心を神の方向へと導く聖霊様がおられる。
罪びとたちの心を回心へと導いてくださる神の強い愛がある。
そうした人々を「あなたはどこにいるのか?」と探してくださっている。
真実の神を求めている人を、神は地上を見回して、見つけ出してくださる。
にもかかわらず、なぜ、人は罪に支配されてしまうのだろうか?
未だ罪に支配されている状態にあるのだろうか?
何が間違っているのだろうか?
居待ち月が、西空に。
原因は明らかだ。
恵みが与えられた目的を、その人が(その内なる人が)達成しないように妨げている神に敵対する力が働くからなのだ。
その力は、人を不信仰へといざなっていく。
その人は不信仰によって神の恵みをだめにしてしまう。
キリスト信者は誰でも、口では神の恵みを受けている宣言する。
しかし、神の恵みが罪を破ることを、その人が受け入れないならば、
その人の内で恵みが罪より強い主権を握らないのなら、
その人は明らかに神の恵みをいたずらにしか受けていない。
「いたずらに受ける」とは、漢字で書くなら、「悪戯に受ける」である。
悪いお遊戯となってしまう。実に不謹慎なことである。
神の恵みを自分から無駄な遊びとかしてしまうことになる。
もし、その人の内で、恵みが働くのが許されれば、神の恵みは、その目的を完全に成し遂げることができる。
恵みは全く神から来る。恵みの力は神の力だ。
もし、その人の心と生活の内に、神の御心に従って働く余地が与えられるならば、神の力は「全て信じる者に、救いいを得させる」のである。
不信仰は神の恵みをだめにしてしまう。
祈ります。
父なる神よ
私が過去の罪からの救いという恵みを受けるだけで満足してしまうことのないように、私の魂の内に、恵みが罪の力自体に対抗するための場所を作ることができるように、聖霊の導きに素直で、従順でありますように、日々私を再創造して下さい。イエス様の御名により祈り求めます。
マラナ・タ
信仰的に見える不信仰の道へとサタンは道案内するのです。
サタンは光の天使を装います。(コリント第二11:14)
私たちは、サタンを侮ってはなりません。
日々、神様に識別の霊を求めなくてはならないのです。