ごきげんよう!さわこです
無敵の信仰 88.89ページからの引用です。

霊の目が開かされました。

 

 

無限の恵みが全ての人に与えられており、その最大限にまで救いをもたらしている。
 
では、そのような無限の救いを持っていない人がいたとしたら、それは何故なのか?
 
ただ単に、その人が既に与えられているものを受け取っていないからだ。
 
罪が支配したのと同じように、今度は、罪の力に対抗して1人ひとりを支配し、罪がもはや力を持たないようにするために、無限の恵みが、全ての人に与えられている。
 
では、罪に逆に支配されてしまったり、もしくは罪に未だに支配されている状態なら、何が間違っているのか?
 
原因は明らかだ。
その人が恵みが与えられた目的をその人のために(また、その人の内に)達成しないように妨げているからだ。
 
その人は不信仰によって神の恵みをだめにしてしまう。
すなわち、その人は、神の恵みをいたずらに受けている。
 
信者は誰でも、口では神の恵みを受けている宣言する。
しかし、その人の内で恵みが罪を破ることも支配することもせず、恵みが罪より強い主権を握らないのなら、その人は明らかに神の恵みをいたずらに受けている。
 
神の恵みは、その目的を完全に成し遂げることができる。
もし、恵みが働くのが許されれば。
 
恵みは全く神から来ることを学んだが、それは、つまり恵みの力は神の力だと言うことだ。
 
もし、その人の心と生活の内に、神の御心に従って働く余地が与えられるならば、神の力は「全て信じる者に、救いいを得させる」のであって、不信仰は神の恵みをだめにしてしまう。
 

 

父なる神よ
私が過去の罪からの救いという恵みを受けるだけで満足してしまうことのないように、私の魂の内に、恵みが罪の力に自体に対抗するための場所を作ることができるように、聖霊の導きに従える私へと再創造して下さい。
それこそが「私にとっての大争闘なのでした。
イエス様の御名により願い求めます。
 
マラナタ
主よ、恵みの本質を私は分かっていませんでした。
なんと安価な恵みを振り回して、一時の平安荷物満足するということを繰り返していたのでありましょうか。
カットバンや鎮痛剤に頼るごとき信仰ですありました。信仰もどきの不信仰でした。