ごきげんよう!  さわこです。

20年前にカナダに住んでいた信仰の大先輩が送ってきてくださった本。

昨年から、読み返しています。

今回は、聖句を聖書で確認しながら。

内容は、ひと言でいえば「信仰による義」

本に出てくる聖句箇所は、自分で確認するように、と、書いておられる。

20年前は、あちこち線を引いて読んだ形跡はあるが、聖書を開くようなことはしていなかった。

 

「○○は、辻好史先生が翻訳されたジャック・セクエイラ先生が、書いてあった」

 

ではなく、

「○○は、辻好史先生が翻訳されたジャック・セクエイラ先生が複数の聖書の箇所を根拠に書いておられた」

 

として、肚に落とし込まなくてはならないのだ。

 

 

 
すべての真理は神から来る。
神はさまざまな人々に、多様な方法をお用いになって真理を啓示なさる。
それもこれも、キリストの身体なる教会全体の益とするために他ならない。
福音の書解体書 5ページより
 
昨日、ある方の証を読んでいて、
神様は、それぞれの信徒に、
それぞれに異なる
耐えがたい試練をお許しになることを、
痛感しました。
 
その直後、聖霊様に導かれて、
「福音の解体新書」を開きました。
 
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神様の訓練の目的は、いくつもあると思います。
信仰を養い、人格を磨き、品性を浄め、
キリスト様に似た品性をお与えになるため。
そうして天国の住人にふさわしく再創造してくださるため。
 
その過程において、キリストの福音を告げ知らせる者となるため。
真の神様に出会い、真の回心をし、そこでとどまることなく。
 
日々、御言葉そのものであるイエスを
丸ごと記した聖書を読み、味わい、
イエスと一つになっていくため。
 
「もはや、生きているのは私ではなくキリストである」ガラテヤ2:20
 
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求める魂に出会った時に、その機会を逃すことなく、福音を伝えるため。
トラクト、書籍、さまざまな文書、手紙、ネット時代となった今、方法はさらに広がる。
 
個人のためだけでなく、家族のためだけでなく。
迷える人々、求める人々がどれほどいることだろう。
 
そういう人々が、かつての私のように
「聖書を読んでみたいんですけど」
と、いつ、言い出すかもしれない。
 
そう、思った時に、
玄関のチャイムが鳴って文書伝道者が立っていた。
 
そんな奇蹟を神さまは起こそうと計画していらっしゃる。
 
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キリスト者の日々は、いつもキリストの内住を求め、御言葉を蓄え、備えること。
 
マラナ・タ
「主イエスよ、来てください」という意味の短い言葉。
主イエスが再臨なさってからでは遅いのです。
マラナ・タと祈るなら、
「日々、私のうちに来てください」と、だけではないのだ。
 
日々、私のうちに来てくださるインマニエルなる(主われらと共に居ます)キリストと共に、出ていくことなのだ。
出ていくとは、文書伝道者として献身することだけという意味ではなく、自分に与えられた時間のすべて。
出ていくことができなくても、今、いる場所において、神さまの御用のために用いて頂くのだ。
 
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マラナ・タ
マラナ・タと祈るなら、この祈りを生かすように、何をするに主キリスト・イエスのために、在ることだ。
そうしないではいられないような思いを神ご自身がお与えくださるのだから。