ごきげんよう! さわこです

 

 

「神を畏れる」は、神様を中心とした生活を送ることです。
私たちの真の目的であり真の喜びは、神様を中心にし、それを私たちの全ての基盤にすることです。
(安息日ガイド2023.2期4課より)
 

 

 
「畏れ」という漢字を見ると、「畏敬の念」だと思うことが当たり前だとは、一般的ではなくなったのでしょうか。
 
おそれと聞くと恐怖にしか結びつけられない人が増えてきたのでしょうか。
 
もし、そうであるとするなら、日本人から漢字力と言葉力が失われて来たということでしょうか。
 
だとしたら、サタンはほくそ笑んでいます。
 
畏敬の念とは、神様を畏れ敬う厳粛な心です。

 

 

他者から、親切な配慮ある行為をしてもらうと「おそれいります」との言葉が用いられて来た日本社会だったはず。
 
キリスト教信者が人口の1%に満たない日本社会は無神論社会ではあり、サタンに支配された呪われた国などと、言って憚らないクリスチャンがいるとするなら、立ち止まって、神様にキリストの御名により祈ってほしい。
 
畏敬の念を持つ民族が真実の神に無関心であろうはずはない。

 

 
サタンは日本人を「失われた人々」にしておきたいのです。その手に乗ってはなりません。
 
マラナ・タ
エデンの園で、「失った人々」を取り戻すために、神ご自身が地球にお降りになられたのです。
それが聖書の主題です。