ごきげんよう!さわこです!
幕末の儒学者林復斎を知っていますか?
「太平の眠りを覚ます蒸気船たった四杯で夜も眠れず」
ジョウキセンという名の煎茶と重ねての狂歌は、私の学んだ半世紀以上も前の教科書に載っていました。
ペリー来航で日本は開国したのだよ。
幕府の弱腰外交を江戸の庶民でさえあきれていたんだよ。
とばかりに教えられてきていました。
ペリーと交渉した林復斎の名前が教科書に載っていたかどうかの記憶さえない。
本当に日本はアメリカの武力に屈したのか?
教科書にも、歴史小説にも大河ドラマにもそのように描かれているのでそのように思いこんできただけではなかったのか。
ペリーと交渉した幕府方の儒学者林復斎(はやし-ふくさい)の名前を知ったのは十数年前でした。
「会津」に関心を持って、幕末について会津の視点から見たらどうなんだろう?
と思うようになり、関連書を読んでいるうちに知った名前でした。
復斎は、代々儒学者の名門、林家に生まれています。
1853年、ペリー来航を機に復斎は日本史に名前を残すのです。
ペリーが砲の付いた四隻の蒸気船でやってきたのでした。
「太平の眠りを覚ます蒸気船たった四杯で夜も眠れず」と、はじめてみる艦船に日本中は大騒ぎ。
そんな中、林復斎は老中・阿部正弘よって翌年のペリー再航の際の直接の交渉役に選ばれたのでした。
ペリーの恫喝的な態度にも林は動じることはなく淡々と会議を続けました。
前回の来航で米側から示された薪・水・食料などの給与、漂流民の救助は国の法に照らして問題がないので承諾。
しかし、三つ目の交易については、国法で禁じられているからときっぱりと拒否。
交渉は何度も行われ、交易についてなおもペリーは食い下がります。
しかし、林が「あなたは人命が第一と申された。交易と人命は直接関係がない。」
ペリーは反論できず交易については諦めます。
しかし、ペリーは戦術を変えて薪水給与のために長崎以外に港を開港するよう求めてきました。
だが、林は一度目の来航時に他の港の開港要求がなかったことを理由に拒否。
こうして林復斎はペリーのペースに持って行かれることなく交渉したのでした。
結局、下田、函館が『開港』されましたが、これらは来航したアメリカ船に薪水等を与えるための港であり、林の交渉術で外国人の港からの行動範囲も七里以内に制限することができました。
林復斎は武力に動じず、ペリーの恫喝外交にも屈せず、アメリカ側の『交易』については日本の方を盾にみごとな交渉をしたのでした。
にもかかわらず、多くの人が「日本はペリーの武力に押されて開国した」というイメージを持っています。
それは、交渉方に林復斎を選んだ老中阿部正弘をはじめ、有能な役人たちもいたのです。
江戸幕府は、弱腰であったと言い切っていいのでしょうか。
幕府方には、教科書には名前が残されていない優秀な人材がいたのです。
高校時代の担任が、折に触れ「勝てば官軍」と言っていたことを思い出します。
明治の新政府は自分たちに不都合な記録は残さずに、江戸幕府を無能呼ばわりしていたことにも重なりました。
勝者の側からばかり見て歴史を批評してはならないと次第に思うようになりました。
今まで、教えられてきたことにも「何かの意図」があるのじゃないのかなと。