ごきげんよう!さわこです。
 
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福音は、人のあらゆる問題の源である自己依存から、
人のすべての喜びと幸せの源である神依存へと
逃れの道を開いてくれたのである。
(「福音の解体新書」206頁)
 
思い出
32年前、山形俊夫先生の預言の声通信講座を学んでいた時、
 
コリント第一10.13
「あなたがたの会った試練で世の常でないものはない。
神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に
会わせることはないばかりか、試練と同時に、
それに耐えられるように、
逃れる道も備えてくださるのである
 
この御言葉によって、生ける神キリストの御臨在に包まれました。
そのような、皮膚感覚は初めてのことでした。
 
その時、私は、神様によって、神依存という逃れの道へと急ハンドルを切られたのでした。
 
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これが聖霊様による導きであり、助けであり、聖霊体験でした。
後は背中を押されて、七日目ごとの安息日学校・安息日礼拝に
皆勤賞並みに通い続け一年未満でバプテスマにあずかりました。
 
私の奇蹟体験です。
神様に取っ捕まえられてしまった神秘体験です。
 
逃れの道とはキリスト様そのものです。
主イエスは道・真理・命です。
主イエスは御言そのものです。
 
青春時代キリスト教嫌いだった私が、
聖書そのものを学び、神秘の奇蹟体験となりました。
 
しかも一過性ではなく人生そのものがキリストと共にある。
毎日、聖書を読み、考え、神様に語り掛ける。
 
何を見ても聞いても、そこに神様のみこころを知りたいと求める。
日常生活そのものが、神様に思いを向けて回るようになった。
あれもこれも、万事が神秘の奇蹟体験。
 
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私は、死を怖がっていたわけでもない。
救われたいという発想そのものもない。
天国へのあこがれもない。
 
ただ、生きずらかった。
人間が怖かった。
人間を信用しきれなかった。
 
親との信頼関係が欠如していたわけでもない。
友人がいなかったわけでもない。
ただ幼少期から、友情を感じる友から、無関心さや意地悪をされる経験をしてきた。
しかし、その悲しみを親には言えなかったし、もちろん言える相手はいなかった。
 
そういう意味では、問題のないように見えて、実は孤独さを抱えた問題児だったのかもしれない。
人の心の動きに過敏だっただけなのかもしれない。
 
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小学一年生の担任が「詩」を書くことを教えてくださった。
中学一年の時「赤毛のアン」に出会った。
親以外で初めて信頼できた恩師。
身近には居なかったタイプの腹心の友になった本の中の少女。
 
私は、真実の友を求めていたことを神様は知っていらしたのだと思います。
私が求めていたお方はキリスト・イエス以外にはおられなかったのでした。
 
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私は、今でも「永遠の命」が欲しいとは思っていない。
「死にたくない」とも思っていない。
「天国に行きたいね」とも思っていない。
 
ただ、毎日、イエス様、そば近くにいてください。
いつもイエス様の御臨在を感じさせてください。
それだけ。
 
イエス様を知るためには「聖書」に優る方法はない。
その聖書には「永遠の命」があり、「天国がある」と書いてあるから、
「信じるしかない」ので、神様に信じさせてもらっている。
 
信仰は神様からの頂き物。
勝ち取るものではない。
と私は思う。
しかし、信仰は、人間が勝ち取って手にするものである。
と聖書に書いてあるならば、それをもってデボーションしなくちゃと思う。
 
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マラナ・タ
いつくしみふかき ともなるイエスは・・・
教会で最初に教えてもらった讃美歌
 
追記
小学一年の時の恩師は90歳を超えてご健在。
私は恩師が転勤されてから一度もあっていない。
それなのに、年賀状は何十年も出し合っている。
中学二年の時の国語の教科書の中に「グリーンゲイブルスのアン」が登場して驚いた。
私の腹心の友が教科書に載っていた。
作者のモンゴメリも翻訳者の村岡花子さんも有名な人だと知った。
私だけのアンではなかったのだった。
その国語の先生とは今も親しい。
振り返ってみれば、ピンポイントで神様は私を孤独から守っていてくださったのだと思う。