ごきげんよう!さわこです

 

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今朝は鉄道に乗って、お出かけしました。

信仰の友のお宅での聖書研究集会です。

車窓からパチリ。

列車に乗るとわずか30分でも旅気分になります。

雲の形は、いつも違うから、

同じ景色が新たに見えます。

4人掛けのボックス席を独り占めしていると

ささやかなぜいたくがうれしくなる。

 

景色も見たい、本も読みたい。

30分の使い道は、二者択一できなくて。

目が疲れたら景色を見ようと決めて

昨日、安息日礼拝で教会に行ったら、

私のメールボックスに書籍係さんが入れてくださっていた

「アドベンチストライフ」3月号をバッグに入れておきました。

 

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ついつい夢中になって、読みながら、ブログに下書き。

「次は○○!」のアナウンスにびっくり。

 

大慌てで、コートも羽織ることもできず、抱えたままで下車。

友のうちには白梅が咲いていました。

 

以下の記事が私を夢中にさせたものです。

 

しかし、目標と手段が

ひっくり返ってしまうことは

なんとしても避けなくてはなりません


私たちは

神の国の到来と神の義の実現を

第一にしていく必要があります。


イエス・キリストの真実による義が

私たちの間に、日々、

建てられなければなりません。


そして、

その目的が果たされために

主は、必要なものを

すべて与えると約束しておられます。

 

夢中になるはずでしょう?

 

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白梅は、友のお宅のシンボルツリー

10時から12時前までの時間

創世記12章の1節から17節までを、3人で1節ずつ味わいながら輪読、熟読。

1節

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。

 

エレン・G・ホワイトの「人類のあけぼの」によれば、信仰を育てるためには、世から解き放たれる必要があった。親族からも親からも離れた孤独の時が大切だと書いてあります・・・

 

孤独の時は、誰にとっても必要な体験ですね。

孤独の時こそ、神様を身近に思う時、

神よりほかに頼る者がないと自覚する時、

 

共にいてくださるインマニエルなるお方、

イエス様と二人だけの時が

孤独の時間なのですもの。

 

終わりが近い蝋梅ですが、枝というより幹に咲いている花一つ。

先に咲いた花たちは、つぎつぎに散っていった。

 

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アブラムが暮らしていたカルデアのウルの地は

大都会だったそうですね。

 

今でいうなら、東京とか、ロンドンとか、パリとか。

高層建築も、大学も、図書館も、あって、科学も学問も進んでいた。

 

音楽や芸術の講演のためのホールとか、ショッピングモールとか、デパートとかもあったんでしょうかしらね。

 

そんな地に裕福に不自由なく暮らしていたアブラムが、なぜ、「神さまが示す地」という以外は何もわからないところに「行け」と言われたのは何故でしょうか?

 

エレン・ホワイトの本によれば、

アブラムの子孫から世の贖い主がお生まれになるという約束のために、信仰の試練を受けなければならなかった。そのために犠牲が要求された。

 

その最初の犠牲が、住み慣れた地を離れる事。親族たちから離れる事であった。

 

神がアブラムに偉大な任務を与えてその任務にふさわしい者とするために、青年時代を共に過ごした仲間からも離れるという犠牲を要求された、

という意味のことが書かれていましたよ。

 

私たちは青年期になると進学や就職で親の家から離れるという体験がそれぞれにあるのではないでしょうか。

 

アブラムの場合は、神の使命のゆえに、清さを求められて、故郷から離された。

 

私たちの場合は、親の目の届かない場所で、自由を謳歌しようとして「放蕩息子」のような「清さ」とは真逆の生活を過ごして、傷ついたり堕落したりするケースもあったと思う。

 

放蕩息子の譬えのように、帰って来る「父の家」があり、失敗し傷ついても「迎えてくれる父」がいた。そういう親子関係が結ばれていた者たちは幸いだと思います。

 

この集会に居合わせた者たちは、富豪一族ではなかったけれども、

クリスチャンホームでもなかったけれども、

日本の倫理道徳規範に基づいて、

堅実に生きて来た親の元で育ったという意味では、

それなりに尊敬できる親であったという意味では、

幸いだったと思います。

 

当たり前の価値観を養ってもらえた環境だったから、

聖書のモラルを知った時、

「十戒」って当たり前のことを書いてると、

特に5条以降は。と納得できる。

 

ただ、4条の安息日を覚えて・・・云々になると、

聖書から解き明かしてもらわないと分かりにくいですけれどもね。

 

偶像を拝むな、神以外のものを拝むな。神は唯一である。

 

4条は別として、こういうことが書かれている十戒の1条2条3条。

これら神様の命令に従うからこそ

5条から10条までの道徳規範に従うことができるのではないでしょうか。

 

こういうことって、道徳的な常識は、

日本人にとっては

聖書に書かれていると教えられなくても、

道徳規範は、守れなかったとしても、

守れない自分を後ろめたく思っていたり、

守れなかった自分を恥じたりするのは、

正しいと知っていたからではないでしょうか。

 

そりゃあ例外をあげたらきりがないのですが、

キリスト教国家の人たちよりも、

日本人の道徳レベルが低いのだと

言えない事実、ありますよね。

 

近年、価値観の多様化とか言って、

何でもありの時代になってきたような面もありますが。

 

ここで、そういう文化論を

語ろうというのではありませんが、

 

要するに、

日本人は、福音を受けいれる土壌が

すでにできている民族だと思うんですよ。

 

エレン・ホワイトの文書には

アブラむは、神様の目的のために任務を与えられた人物であったので、

 

「安易な生活や友人や親族の感化は

その働きを完成するのに必要な

品性の発達を妨げるのである」。

 

「アブラムには人間的感化や援助から遠ざけて、

神の必要を感じさせ、ただ神に頼るように導いて

神ご自身が啓示しようとなさるのである」

と書いてあります。

 

ここまでだけで最初の30分。

後の1時間30分も、

アブラムが信じた神様の本質について

語り合って、あっという間に過ぎてしまった。

参加者の一人は、求道者です。

この方が、聖書の神様に導かれますように。

 

マラナ・タ

御霊は導いてくださった二時間でした。

 

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帰り道は早咲きの桜を眺めつつ。

 

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ラナンキュロスも咲いていました。