ごきげんよう!さわこです。
ある友が、何十年とクリスチャンでありながら、実は・・・と心の底に秘めていた疑問を打ち明けてくれました。
「神が従わない者や異民族を滅ぼす」というフレーズが頭の中から離れないのだと。
「神は愛である」という聖句だって知っている。
慰めの言葉だって美しい言葉だってあるけれども、
「滅ぼす」ことが心に引っかかって、
聖書を開くことはほとんどなかったのだと。
そう打ち明けてくれた友に
ある方の(高齢の信者さんだと思います)例話を引用してお話しました。
以下
4歳になる孫娘に、私が「隣町のおじさんの家までお米20キロかついで一人で届けてきなさい」と言ったら、孫は、「できない」と泣くだろう。
それで私が「なに、できない、それだったら、お尻ぺんぺんするよ」と言ったら、そんなひどいことをするおじいちゃんは嫌いになるだろう。
実はこれと同じようなことをサタンが世の初めから主張しているのだ。
「神様の律法は守れない、守れない律法を与えておきながら、守れなかったからと言って罰を与えるのは不当だ。神様は愛ではない」と。
完全に造られたルシファーやアダムでさえ守れないような律法を与える神様は、愛ではないというのだ。
それに対してアダムの堕落後4千年の弱められた遺伝的性質を持たれたイエス様が、人間と全く同じ立場で律法を守られたことによって、サタンの主張は崩れることになった。
しかしサタンはもう一つの詭弁を持ち出すに違いない。
サタンは天でのイエス様を知っているのだから、神であるイエス様が律法を守られてもそれは当然である。
いくら人間の姿をしていても、被造物とは違うから律法を守ることができたのだと言うに違いない。
以上
サタンは聖書を読む者に、このように語りかけて来ます。
聖書の中で、神様に不信の気持ちを持たせることがサタンの目的です。
聖書の中には、神の愛とは思えない神様の言葉が出て来ます。
その時には、どうしたらよいのでしょうか。
私は、初めの頃には、頭も心も混乱しました。
やがて、
「今の私の信仰では理解できません。聖書の言葉から納得できるように導き助けてください」と祈ることにしました。
①信じがたい神の言葉には赤い付票
②信頼できる神の愛には青い付票。
③理解し難い箇所には黄色い付票。
聖書につけて、あるいは色鉛筆で聖句に線を引いておく。
ノートには、聖句箇所を全部書き写すのは難しいですから。
まず3つに分類しておいてはいかがでしょうか?
頭と心のもやもやをノートに移すんです。
ノートに移動させるのです。
こういう分類ノートを一冊、用意します。
もう一冊は、気になった御言葉から思いが浮かんで来たら、それを書きつけるノートを用意します。人に見せるわけではないけど、神様は御覧になっておられます。
こうして自分の思いを神様に明け渡す。
つまんない思いだけれども、これでも祈りと見なしてくださる神様、すみません。
でもこれが私です。と、お捧げする。
全部、自分の中に抱えたままでは、負のスパイラルに陥ってしまいます。
聖書通読をそういうふうな作業とセットするんです。
そういう作業を、振り返ったら20年やってきました。
聖書が壊れかかって、汚くなりました。
黙示録ははずれかかっています。
もっと大事に使うべきだったと、後悔もあります。
でも、この聖書でなら探す聖句がすぐに見つかるという不思議な利点もあります。
混乱してしまう聖書の言葉がいくつも出てきますが、
そこは、もしかしたら神様のテストかもしれないと思います。
ヨブ記を思いました。
神様がサタンにヨブを試すようにすることをお許しになりました。
ヨブ記1章8節~12節です。
9節でサタンは答えます。
「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。彼の財産をすべて取ってしまいなさい。あなたを呪うに違いありません」要約ですが、このようにサタンは言ったのです。
12節神様は
「それではヨブの物を一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし、彼には手を出すな」とおしゃいました。
「サタンは主のもとから出て行った」のです。
そうしてヨブの悲劇が始まります。
私がヨブ記から受け留めたことは
「あなたは何があってもどんなことが起きても、神であるわたしを信じるか。わたしを信頼し通すか?わたしから離れないか?」
そのように、神様は事あるごとに問いかけておられるということです。
サタンが、私たちが誤解し誤読しそうなハードルというか、落とし穴というか、迷路というか、そういう聖書の難所で待ち伏せしているのではないのか。
ということではないだろうか?と考えるようになってきました。
マラナ・タ
神様を誤解しそうな聖句に出会った時には、「私は神様の愛と義のご品性を信じています。この聖句の難所を通りぬけて、神様の真実から迷いでることのないようにお導きください。