ごきげんよう!さわこです。

image

 

昨日も梅を見に行っていました。

三週間前から、梅の花便りを探しに

足を運んでいました。

 

この梅スポットは有名です。

もしかしたら、私は桜よりも、

梅の開く日を待ち焦がれているのかもしれません。

と、この春、気が付きました。

 

いつからか、誰も誘わずに一人で行くのが好きになりました。

 

先週は、お弁当を作って一人で、梅見遊山を楽しみました。

安息日の午後、お礼拝の帰り道でした。

 

image

 

2022年2月の安息日聖書研究ガイドの記録から

 

ヘブライ人への手紙副読本54ページより

 

イエスにしがみついているというのは、

注意してイエスを観察するということです。

 

イエスにしがみついているというのは、

イエスに従って行くという意味です。

 

従順は、信仰の自然な表面です。

 

イエスに信頼することで、

従って行くことができます。

 

信じる者は、従うことで真の理解が得られるので、従順は素晴らしい体験です。

 

ギリシャ語の「信仰」には、「忠実」という意味もあります。

 

信じる者は、

困惑するような状況、

あり得ないような状態、

理解しにくい経験に直面した時に、

 

イエスにすがり、従っているなら、

いつでも救い出して下さったことを覚えています。

 

私たちが苦しむ時に、

解決法を生じさせるお方は、

無から全宇宙を創造されたお方であることを思い出すのです。

 

イエスに従って生きていく経験から、

より深い知恵を得るようになります。

そして、

キリストとの信頼関係が円熟したものになります。

 

image

 

20年以上も前に

「しがみつく信仰は自力の信仰であって、

信仰は、ゆだねる他力の信仰じゃなくちゃいけないのよ」

 

と、教えてくださった方がいらっしゃいました。

「ありがとうございます」と言いながら、

 

心の中で「ワタシはあなたのような信仰の達人にはなれないわ」

と、つぶやきました。

 

image

 

素晴らしいはずの助言に、

信仰の小さい者は、

とがめられたような思いさえしてしまいました。

 

それから、20年近く過ぎて、

安息日学校聖書研究ガイドで、

このような上記の

文章に出会いました。

 

image

 

窮地に立った人間の思いを、

「しがみつくのは自力の信仰よ」と

言い放つことができるのは、

順風満帆の人生を送ってこられたからでしょうか。

それとも、学んだばかりの神学用語でしょうか。

 

image

 

「しがみつくのは、懸命にイエス様にお従いしている証拠ですね。イエス様は自分の十字架を負ってわたしに従いなさいっておっしゃいましたものね」

 

今なら、このように、言えるのかもしれません。

 

image

 

マラナ・タ

「ゆだねる」との教会信仰用語にアレルギーをしばらく起こしておりました。

信仰用語の使い方って大事。