ごきげんよう!さわこです

 

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臨死体験について、どのように考えていますか?

聖書は、どのように言っているでしょうか。

 

まず、

レイモンド・A・ムーディ・ジュニアの著書「垣間見た死後の世界」より、臨床的に死んだと宣告され、生き返った100人以上の人々の事例についての考察から―

 

その多くの人たちは、肉体を離れ、長く暗い道を通り、トンネルの先に光の存在を見たと報告している。

その中には死んだ親族や友人の霊魂に出会ったという事例もあった。

ムーディが後に出版した著書「リユニオンズ―死者との再会」の中で、ムーディは、生きている者と死んだ者が会って話すことができるとされる場所「中間地帯」の幻を受けた人たちの事例を取り上げている。

 

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次に、

精神医学・行動科学科のロナルド・シーゲルは、ムーディの報告に関して―

「生まれ変わりを強く信じている文化では、脳に保存された画像に基づいた解釈に導くことができる」と言っている。

 

つまり、シーゲルは「その人が、生前に聞かされてきた文化思想での解釈をするのではないか」と批評しているのではないか、と私は思った。

 

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三番目に

アドベンチストであるスイスの作家ガスタフ・トプラーは、聖書神学の観点から―

創世記3:4の「決して死なない」とサタンが言ったのは、サタンの欺瞞である。

 

なぜ、サタンの欺瞞というのか?

嘘つきであるサタンは、臨死体験という出来事が、実際にあるかのように人々に思わせようとしているのではないか。

 

なぜ、嘘なのか。

その理由は、聖書には、死とは深い眠りの無意識状態であると書いている。

 

臨死体験をしたという人間の体験に基づくのではなく「聖書」が「死」をどう書いてあるか、それが大切なことではないのだろうか。

 

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8つの聖句から検証した。

重要なところはラインを引いた。

 

〇ヨブ記3:11-13

「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに」

 

〇詩編13:4

「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください。死の眠りに就くことのないように」

 

〇詩編115:17

主を、讃美するのは死者ではない。沈黙の国へ去った人々ではない」

 

〇詩編46:4

「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」

 

※この霊とは、創世記2:7の「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった」とあるように、神によって吹き込まれた命の息が「霊」であって、人が死んだときには、神の霊は神の元に帰るのである。

 

人間の中に初めから人間の霊が生きているのではない。

神がご自身の霊を、人のうちに吹き込まれて、人を生きる者としてくださったのである。

 

〇ダニエル書12:2

「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」

 

〇コヘレト9:5、6

「生きている者は、少なくとも知っている。自分がやがて死ぬ、ということを。

しかし、死者は、もう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、すでに消え失せ、太陽の下に起こることのどれひとつにも、もう何のかかわりもない。

 

〇コヘレト9:10

「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府(よみ)には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」

 

※この陰府(よみ)とは、墓場のことである。

死んだ人が意識を持って暮らしている死者の国ではない。

 

〇ヘブライ9:27

「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、・・・」 

 

※死んだ人がすぐに天の神の支配される天国に行くのではない。

 

〇1コリント15:26「最後の敵として死が滅ぼされます」

 

※聖書は「死」を「敵」とみなしているが、臨死体験を霊魂不滅の観点から考える者たちは「死」を友であるかのように描いている。

 

※体外離脱した魂は「光が見えた」という報告をしているが、この臨死体験者のこの体験報告は事実だろうか?

思い込みに過ぎない嘘なのだろうか?

 

顔を輝かせて喜びに満ちた体験記を聞いた者たちは信じたくなる。

「死」とは、「光に包まれた神の元に帰る喜び」であり、それを体験した特別な人としてリスペクトしてしまいたくなる。

 

未知なる者に遭遇して帰還した人間の個人的体験を疑うのは失礼であるかのようにさえ思ってしまう。

 

しかし、聖書は「死」は、友ではなく、敵であり、滅ぼされるものであると書いてある。

 

〇Ⅱコリント11:14

「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」

 

※臨死体験をした人が、出会った「光」は神だったのだろうか?

聖句は「サタンが光の天使を装う」と書いている。

 

・・・・・以上聖句からの検証でした・・・・・

 

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●1981年、ジャック・W・プロヴォンシャの論説によれば―

「聖書を規範として受け入れている者にとって、臨死体験は『幻覚』である。

『幻覚』は、死後の現実にほとんど結びついていない」

 

●ジャック・デュカーンの著書「陰の谷を通り抜ける―科学的、哲学的、聖書的精査の下での臨死体験」によれば―

 

「臨死体験に暗示されている死後の世界の概念は、聖書の復活の希望を不必要にするだけでなく、完全に無意味なものにするだろう。

 

なぜなら、神ご自身の必要性を排除させるからである。

 

もし、人間が、無条件に不死であるならば、復活の意義はどこにあるのだろうか。

 

実際、この論争で危機に瀕しているのは、聖書の希望の真理なのである」

 

青字は

安息日学校聖書研究ガイドの副読本

「再臨と死者の復活、そして悪の終焉」

第11章「終わりの時代の欺き」より引用

 

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マラナ・タ

結論。臨死体験は幻覚である。

臨死体験が現実にあると信じている人にとっては、実に残念なことですが。