ごきげんよう!さわこです
正しく生きたいとか、よりよい生き方を求めてとか、
救われたいとか、困難からのがれたいとか、
いろんな理由があって、人は宗教を求めます。
私は、キリスト教を嫌っていたにもかかわらず、
聖書の神様は、わたしを一本釣りで釣りあげました。
十字架のキリストの居られる宗教に捉えれました。
キリストが十字架につけられたのは、
天地創造の前か立てられていた神の計画でした。
その計画の中心は、
十字架につかれる神の小羊であるイエスの死なのです。
この計画は、
エデンの園でアダムとエバに最初に明らかにされました。(創世記3:15,21)
旧約時代には、あらゆる血の犠牲に予表されていました。
アブラハムの信仰が試されたとき、神はイサクの身代わりとして雄羊を備えられました。
(創世記22:11-13)
この身代わりは、キリストの十字架の贖いの犠牲をより明確に予表するものでした。
救いの計画の中心は、何世紀にもわたって動物の犠牲によって象徴されたイエスの身代わりの死でありました。
その、一つ一つの犠牲は、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であるイエスの十字架の死を指し示していました。
(安息日学校聖書研究ガイド2022年4期6課10月30日より)
マラナ・タ
聖書の宗教にはイエス・キリストがおられます。
十字架があります。