ごきげんよう!さわこです。

 

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「私たちは時に、なぜ、長い間、待たなければならないのでしょうか。

このような試練を経験する中で、私たちは忍耐についてどのような教訓を学ぶことができるでしょうか。」

安息日聖書研究ガイド9月3日にこういう問いかけがありました。

 

今週のタイトルは「試練の中で待つ」

 

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これに答えること自体が私の証しとなりました。

 

私は、あまりに長く待つので、「待たされる私の側に問題があるのだ」という思いが強くなっていきました。

そして、それは、「祈りがなぜ答えられないのか」という疑問となって行きました。

 

信仰を持った当初は「速やかに聞かれた祈り」を聞くことが楽しみでした。

私にも、聞かれた祈りを証しできる時が来る、との期待感に繋がりました。

 

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30年以上も前のある日、母子室に「祈りのきかれかたには3通りある」との張り紙を見つけました。

 

その内容を正確に覚えてはいないのですが、私はこのように記憶していました。

 

①     神様が、すぐにきいてくださる祈り

②     神様が、待ちなさいという祈り

③     神様が、きかれないという祈り

 

そこで、このように理解しました。

①     は、緊急の祈りに対して。

②     は、きかれるにふさわしいタイミングを見計らって。

③     は、良くない(悪い)祈りに対して。

 

どの祈りの答えも、「善いものを与えてあげよう」という神様の親心が伝わります。

神様の御品性(御人格)が分かると、すべて納得です。

 

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信仰生活が10年も過ぎようとする頃、

私は、深い思い悩みに落ち込んでしまいました。

 

「この祈りは私にとっては緊急であった。

しかし、神様にとっては『緊急』ではなく、

相応しい時を見計らっておられるのだ。

だが、待てよ。

神様の目には悪いお祈りなのだろうか?

私の祈りは、

つぎつぎと祈りが聞かれたと証しする信者たちの祈りと

どこが違っているのか。きっと、ちがっている。

間違った祈りに違いない。

私はきっと神様の御心から

離れている人間になってしまっているからだ。」

 

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私は真っ暗な長いトンネルの中を一人で歩いているようでした。

(実は、一人ではなくイエスが共に居てくださったのですが)

 

いつ、出口に辿り着くのか見当もつかない。

トンネルがあまりに長くて、その暗闇の中で、「すべてを御手に治めておられる方」から目を離さないでいるためにはどうしたらよいのでしょう?と。

私は神様につぶやきました。

 

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イエス様は「言」そのものであると書かれたヨハネ福音書の1章を思いました。

それまで私は、自分の慰めとなる聖句を追いかけて読んでいました。

しかし、読み方を変えました。聖書通読です。

 

それを何回繰り返したことでしょう。

そうすることによって「忍耐」を学ぶことができるように変えられて行きました。

自己憐憫からも自虐的な思いからも、聖書のご都合読みからも、解放されて行きました。私にはこの方法以外は有りませんでした。

20回繰り返したので、一昨年から、この方法での通読は卒業して、別の形になっています。

 

 

マラナ・タ

地上人生で、目が見えなくなることもあるかもしれない。

聖書が取り上げられる時も来ると聞きます。

そのときに、うろたえないために、毎日、御言葉を読むことは続きます。