ごきげんよう!さわこです 

2022年安息日ガイド2期の学び

創世記25章19節-34節からの長いデボーション記録

 

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創世記に登場するヤコブという人物はどんな人間だったのでしょうか。

アブラハムとサラとの間になかなか子供が与えられなかったように、その次の世代の夫婦イサクとリベカの間にもなかなか子供が生まれませんでした。イサクが60歳になった時にようやく子供が生まれます。イサクは40歳の時に結婚しましたから、妻のために主に祈り願い、そして、主はその願いを聞かれ、20年経ってリベカは身ごもりそして双子を産むのであります。

 

エサウとヤコブです。ところが弟のヤコブのほうは生まれる時に、兄エサウのかかとをつかんでいたというのです。つまり兄を押しのけて、自分が長子としてこの世に誕生しようとしたのだとルカによる福音書は書いています。

 

「かかと」という言葉が新共同訳聖書では、括弧で(アケブ)と訳されておりますが、ヤコブがエサウのかかとをつかんで生まれようとしたので、ヤコブと名付けたとい記しております。このように、ヤコブは生まれ出たときから人を押しのけるような人間だったということなのです。あまり良い印象が無いですね。この時点で自己主張の強い男のように先入観を持ってしまいます。

 

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さて、「成人してから、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」と書かれています。ここでヤコブは「穏やかな人」と訳されておりますが、どう考えてもヤコブが性格的に「穏やか」であったとは思えません。

狩猟という仕事に対して、農業はそれに比べれば穏やかな仕事というぐらいの意味のようにも読み取れるかと思いますが、安息日学校ガイドを読むと、もっと深い霊的な意味が隠されているように思えます。

 

「穏やか」のヘブライ語の「タム」と同じ形容詞が、ヨブの場合には「無垢」、ノアの場合には「全き」と訳されているというのです。

つまり、「無垢」とは正直に誠実に神に仕える。「全き」とは、全身全霊で神に全面的に仕える。そういうふうに読みこめると思います。

勿論、完全に、完璧に、という事はあり得ませんけれど、神様へのあこがれと言いますか、純粋な思いを持っていた。教会の子どもたちが「イエス様、だーいすき」と言いますけれども、そういう感じなのじゃないかと思います。

 

「エサウは野原を駆ける強靭な狩人として描かれているのに対して、ヤコブは天幕の中にいて瞑想する穏やかな人のようだ」と、書いてあります。

「天幕」というと「神様の臨在なさる幕屋」を思います。

つまり、エサウは神の外にいることを好み、ヤコブは神のうちに神の側にいることを好む、という違いが浮き上がってくるのではないでしょうか。

 

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ある時エサウが疲れ切って野原から帰って来た時、ちょうどヤコブは家でおいしいレンズ豆を煮ていました。

お腹を空かしたエサウが「それを食べさせてくれ」と頼みますと、ヤコブは「まず長子の特権をわたしに売りなさい」というのです。

神様が大好きでも、人格的にはまだまだ荒削りの人の弱みにつけ込むという狡さをもっているのです。

そして、エサウから、長子の特権をたった一杯の煮物と交換させてしまうのです。

 

長子の特権というのは、親の財産を二倍相続できるという特権です。

お腹のすいているエサウは「わたしは死にそうだ、長子の特権などわたしに何になろう」といいますと、ヤコブはすんなり煮物をエサウにあげるのではなく、まず誓いをさせるのです。

実に、ヤコブは抜け目のないずるがしこい人間ですが、エサウは長子の特権を軽んじる人間なのです。
 
そして、ヤコブは、今度は長子の祝福までもエサウから奪ってしまうのです。

父親のイサクが自分の死が近いことを知ると、死ぬ前に鹿の肉が食べたいとエサウにいいます。それを聞いた妻のリベカは、ヤコブをそそのかして大変卑劣な手段をもって父親のイサクをだまし、手近な山羊の肉を鹿の肉と偽って食べさせて長子の祝福をエサウから奪い取ってしまうのです。

 

そのためにヤコブはエサウから殺されそうになって、自分の家を出なくてはならないということになってしまいます。そして、母親リベカの故郷、リベカの兄ラバンのところに逃げて来て、そこでさんざんな苦労をすることになってしまいます。

 

そして20年の後に、自分を殺そうと待ちかまえていたエサウのいる故郷に帰ることになる、そういう物語が実にくわしく記されています。


このヤコブが後にイスラエルと名前を変えられて、ここからイスラエル民族という名前が受け継がれていきます。

 

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故郷に帰りついてからは、ヤコブの11番目の息子ヨセフの物語へと流れは変わります。

ヨセフの生き方、人柄は、実に清廉潔白で、神様の御教えに忠実であり、ヨセフはイエス様の型であると言われています。

 

それなのに、「アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの神」とは言われないのです。

 

「アブラハム・イサク・ヤコブ」の神であって、ヤコブの次にヨセフの名前は言われていないのです。

12人兄弟の中で、ヤコブの後継者として人品共に優れていて相応しいのはどう見てもヨセフですよね?そうは思いませんか?

 

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さて、ヤコブの父であるイサクはどういう人物でしょうか。

イサクという人物は次26章の「井戸をめぐる争い」では、人と争うことが嫌いな人物として描かれています。

平和な穏やかな人物のように思えるのですが、自分の死の近いことを知った時に、なによりも望んだことは、最後に鹿の肉が食べたいということだったというのですから、食べる事には貪欲だったのでしょうか。

 

「食」による貪欲さは罪を犯すことになる。

エデンの園での「エバ」の失敗を思い起こします。創世記3:6「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」

また、エソウが空腹のあまりに、ヤコブの作ったレンズマメの熱いスープと引き換えに「長子の権利」を交換したことも思い出します。

 

イサクは、美味しいしかの肉料理のために、妻とヤコブにだまされて、やぎの肉をしかの肉だとだまされて、おいしいと食べたのです。鹿肉と子ヤギの肉は、調理すると区別がつかないくらい味が似ているのでしょうか?

ともあれ、イサクは、弟のヤコブのほうを長子として祝福してしまうという過ちを犯してしまうのであります。


死ぬ前に最後に望んだことが、しかの肉が食べたいということだったというのは、あまりにも世俗的なことのように思えます。

 

「食という欲望」について、エバ・エサウ・ヤコブ、3人の人物が「食欲」によって人生を狂わせてしまいます。

 

EGWの「各時代の希望」12章「試み」から、引用します。

①食欲と情欲との抑制は重要である。

②サタンは、神が人間にお与えになった知的道徳的能力を滅ぼすために、不摂生を通して働く。こうして人間は永遠の価値を持った事物を認識することができなくなる。

③キリストの模範は、食欲と情欲とを神の御心に従わせることによってのみ、われわれは永遠の命の望みを持つことができるという事を明らかにしている。

④われわれは、自分自身の力では、我々の堕落した性質の要求を拒む事はできない。

⑤主は、人の通らねばならない道を自らお通りになって、我々が勝利する道をお備えになった。

⑤食欲の力と闘っている者は、試みの荒野における救い主を見なさい。

「わたしはかわく」と叫んで十字架上で苦しまれたイエスを見なさい。

 

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さて、父親のイサクはエサウを偏愛し、リベカはヤコブを偏愛するようになったとあります。そのことを28節にこう記しております。「イサクはしかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。」聖書はイサクについて実に辛辣です。イサクはしかの肉が好きだったので、狩猟者であるエサウを偏愛したというのですから。

 

食欲は、父ヤコブにおいては、愛に先行しているわけです。

そしてリベカがヤコブを愛した理由は、ただ「リベカはヤコブを愛した」と記すだけです。イサクは、人間的には愛すべき人物ではあるかもしれませんが、こと、「食」に関しては、愚かな人物としての一面が描かれているように思います。

 

それにもかかわらず、モーセにご自分を啓示された神は「わたしは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神」だと、ご自分をあらわすのです。

ヨセフ物語は、兄のねたみをかったヨセフが一度は殺されそうになるのですが、結局は奴隷としてエジプトに売られてしまうことになり、ヨセフはそのエジプトで大臣にまでなって飢饉で苦しんでいる自分の家族を、一度は自分を殺そうとした兄弟たちを救うことになるというお話です。

 

神は兄弟たちの悪を良きに変えてヨセフによって兄弟たちの一族、のちのイスラエル民族を救うことになるという万事合働きて益となるという物語です。

つまりヨセフの物語は、神の不思議な摂理、導きというものを鮮明に物語るのです。

 

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そのことによって聖書は何を私たちに語ろうとしているのでしょうか。

それは神の選びの不思議さと、イスラエルの歴史を導いているのは神なのだということです。

私たちの生活を導いているのは最終的には神なのだということです。

決して人間ではない。

人間の努力とかわざではないということなのではないでしょうか。

そのことをパウロはローマ人への手紙の9章でこのように言っています。
ひとりの人、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も同様である。まだ子供たちが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。では神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセにいわれた。『わたし自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」と。

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ヤコブ物語を学ぶ時に気をつけなくてはならないことは、あのヤコブがなぜ神に選ばれたのか、自己中心的なヤコブ、長子の特権を得たいばかりにお腹のすいている兄エサウをだまして、一杯のスープとひきかえに、長子の特権を奪ってしまうというヤコブ、後には母リベカにすすめられたとはいえ、父イサクをだまし、エサウをだまし、ついに長子の祝福までだまし奪い取るような、そんなヤコブがなぜ神に選ばれて選民イスラエルの父祖になったのか、いう問いを発したくなることだと思うのです。

 

それは、最初にこの物語を読んだ時から、私の中で気になっていた部分なのです。

自分のボーイフレンドにするならば、狡賢いヤコブよりも、ちょっとおバカなエサウの方がまだましだわ。狡賢いヤコブはどうにも好きになれないとエサウに同情して、愚かにも、私は底の浅い読み方しかできていませんでした。

 

しかし聖書の書き方はそういう問いを締め出してしまうような書き方をしているのです。つまり、ヤコブの選びは、あらかじめ、すでに、神によってなされていたというのです。

二人がリベカの胎内にいる時に、つまり、まだ善も悪も選択できない時に、すでに「兄は弟に仕えるであろう」という神の選びがあったのだということなのです。

 

ですから、頭を切り替えて、こんなヤコブが、なぜ選ばれたという問いではなく、神に選ばれたヤコブはどのような生き方をしていったのか、ということに視点を変えて読まなくてはならないのではないだろうか。その時に、初めて、神が私たちに知らせようとなさっておられることが見えてくるのではないでしょうか。

イサク物語、ヤコブ物語、ヨセフ物語を通して学ばなくてならないことは「神の選び」についてではないでしょうか。

 

神の選びといいますと、神に選ばれるにふさわしい人格品性を生まれつき持っていたからだと思ってしまいます。しかし、ヤコブは神に選ばれたゆえに聖人君主のような生き方ができたのでしょうか?

 

全くそうではないのです。神に選ばれているヤコブは自己中心をむき出しにして生きたように、エサウとの関係性の中では思いたくなるのです。

そうです。少なくとも、自分が神に選ばれているということを自覚するまではそうであったと思います。

 

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パウロという人物もそうでした。彼は後に自分の人生をふりかえり、「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしを召したかたが」と述べています。

彼はもう母の胎内にいるときから、神に聖別されていたというのです。

み恵みをもって自分は異邦人伝道の使者として召されていたというのです。

ところが彼の人生の前半は、クリスチャンを迫害する人生だったのです。

このことも神の選びということの不思議さを考えさせられるように思います。

神の選びというのは、私たちが何か善い行いをしたから、あるいは悔い改めたから、信仰をもったから、神はわれわれを選んでくださったのだ。そういうことではないということなのです。

われわれの行いに根ざして神の選びがあったのではない。

神の選びのほうが先行しているということなのです。

まだ子供が生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画がわざによらず、召したお方によって行われるために、神の選びがあったというのです。

 

神の選びが私の悔い改めよりも、先行している、そのことに気がつかなくてはならないとヤコブの物語は教えてくれるのではないでしょうか。

 

それは、救いが、「悔い改め」よりも先行している「恵みによる救い」という福音そのものではないかと気づいたのです。

 

悔い改めも、神様に導かれて、自分の思いを神様に支配されない限りできないのですから。悔い改める心は神様からくるのですから。

 

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神は「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしを召してくださったかたが」というパウロの信仰に目が開かれて来るように思えたのでした。

神の選びということを正しく知ることができるようにとの神様の招きを思ったのでした。

 

ヨハネ第一の手紙4:10

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛しくださって、私たちの罪のために贖いの供えものとして御子をおつかわしになった。ここ愛がある」ということにつながっていきました。

 

私はバプテスマを受けてから歳月が経って行くにしたがって、「神様に召し出された」という思いが次第に強くなってきました。

「私が神を愛したのではなく、神が私を愛してくださった」とは「私が神を選んだのではなく、神が私を選んでくださった」という事になるのです。

 

世界にはいくつもの宗教があります。日本にも仏教や神道と言った歴史的に古い宗教があります。また創価学会のような新興宗教も根強くあります。

ですから、「数ある宗教の中から私はキリスト教を選んだ」という人もいます。

「あなたにはキリスト教が合っていたのね」と相性の問題にしてしまう人もいます。

 

このような人間の側に置いたとか意識とか自覚に、私たちの信仰の確かさや、 救いの確かさを求めてよいのでしょうか。

そうではない。神の選びが先行しているのだ、ということを聖書は教えてくました。

 

しかし、愚かな私は、この「選び」という表現に心がざわつくのです。

「すべての人間の救いを目的とした愛」と書いてくれたら腑に落ちるのです。

 

大切なことは、この私はすでに神に選ばれていたのだ。

それは言い換えれば、神に知られていたのだ、神に愛されていたのだ、ということ、そのことに私たちが気づくかどうかということではないでしょうか。

神様はすべての人間に、そのことに気づいてもらいたいと願っていらっしゃるのです。

 

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そして、また、選びということを考える時にいつも気になって仕方のないことがあります。

なぜエサウが選ばれないで、ヤコブが選ばれたのかということです。

 

そのことについても、「それはヤコブが立派だから選ばれたのではないのです。そういう人間のわざによって選ばれたのではないのです。だから選ばれた人間は自分を誇ることはできないのです。」と、ここまで懇切丁寧に繰り返して説明してもらわないと納得できない私なのです。

 

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しかしそれにしてもなぜエサウは捨てられ、ヤコブが選ばれたのか。

パウロは大胆に「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とまで書いています。

 

そんな事は創世記には書かれていないのですが、パウロはそこまで言っている。

エサウを神が憎んだ、そう書いた後、パウロはすぐ「ではわたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか」と疑問を出してくれます。

それは、私たちの疑問を先取りしてくれています。

そんなえこひいきする神様があっていいのか?不正が生じるではないか、不公平ではないか。と。しかし、パウロは「断じてそうではない」と言います。

 

そうして「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ。故にそれは人間の意志や努力ではなく、ただ神のあわれみによる」とパウロは、論を進めます。

 

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私は、そこでパウロに疑問をなげたくなります。

「神様には、憐れむ人と、いつくしむ人がいるんだろうか。神様に憐れまれない人も慈しみを注がれない人もいるんだろうか?」それも不公平じゃないのか。

 

十字架のイエス様を見上げていると、万民のための贖いには、救う・救わないと言う神様の区別はあり得ないと分かります。

 

救う、救わない、そういう区別した選びではないもう一つの選びがあるのではないかと思いが向いて行きました。

 

つまり、エサウが退けられ、ヤコブが選ばれたのは、神の選びというものが、神の一方的な主権にある、神の選びが人間の努力や意志によるのではなく、ただ神のあわれみにあるのだということを際だたせるためにとられた表現ではないのか。

愛の深さをあらわすための表現ではないのか。

手の込んだ聖書特有の文学的表現かもしれません。

 

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」ということで聖書はなにを言おうとしているのか。

 

要するに、神がどんなにヤコブを深く愛しているかということの強調表現ではないのか。

そして、ヤコブを愛したその愛の深さをもって、神は実はあのエサウも愛しているのだということではないのか。

 

それがイエス・キリストの十字架において示された神の愛なのだと心が向いて行きますと、疑問が解決するのです。

 

自分の胎内でふたり押し合っているときリベカは神に「こんなことではどうなるのでしょう」と祈りました。

すると神から「兄は弟に仕えるであろう」という言葉を聞いたのです。

だからリベカはついヤコブに注目してしまったのではないでしょうか。

リベカの目はエソウに向けてよりもついついヤコブに向いてしまう。

 

それを子どもの目から見ると、また第三者の目から見ると、ヤコブの方が愛されているように見えてしまうのかもしれません。

 

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リベカは、ヤコブを見るたびに、神の意思を思い巡らしてしまうのではないかと思いたくなるのです。

ですから、イサクが、神の意思を知りながら、エサウに祝福を与えようとしたとき、焦るのです。

イサクは神の御心とは違う事をしようとしているのだ、阻止することが私の務めであると、考えてしまったのではないでしょうか。

神はリベカにそれをお願いしたのでしょうか?

聖書には、リベカへの神の依頼事項は書かれてはいません。

 

ここにも、リベカの失敗から、アブラハムの妻、サラの失敗が思い出されます。

神の御心がなされるためには、人間の側もお手伝いしなくてはならないという浅はかな信仰が見えてきます。

 

マラナ・タ

人間の側に託されている本来の働きとは、簡単に言えばいつも神様の側に、キリストの側に自分の意志を置く。選択権を置くという事になるのではないでしょうか。