ごきげんよう!さわこです
ローマ5:10
「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、
御子の死によって神との和解を受けたとすれば、
和解を受けている今は、なおさら、
彼のいのちによって救われるであろう」
今週のガイド8課を学びながら、
先週のガイド7課「アブラハムと結ばれた契約」を振り返っています。
5月10日の質問に対して答えを書いていましたら、ローマ5:10を与えられました。
神様から確証のしるしを与えられながら、信じられずにもがき疑ったアブラハム。
完璧な環境に置かれながらサタンに惑わされたアダムとエバ。弟を殺したカイン。
サライもリベカもヤコブも・・・「アブラハム的な人間」が次々と登場します。
後世に登場する人間の模型の登場に暇(いとま)がありません。
安息日学校聖書研究ガイド5月10日の質問です。
問い
私たちはどうすれば、アブラハムのように信じられずにもがくときがあっても信じ続けることができるでしょうか。
心に疑いが起きたときにもあきらめないことはなぜ重要なのでしょうか。
私の答え
私は、大争闘神学を知るまでは、「信じられずにもがくことや心に疑いが起きる事」に対して、自分の不信仰のため、自分の信仰が薄いため、自分の愛がないためなどと自分を責めてばかりいました。
しかも、そうすることが悔い改めのようにさえ思って同じ場所をぐるぐる回っていました。
「ただ信じる事」がとてつもなく高い標準の宗教のようにさえ思いました。
その思いに対しての模範的助言は
「神様にゆだねていますか。本気で、祈りは聞かれると信じていますか。」でした。
キリスト教は、とんでもなくレベルの高い信仰を要求する宗教だと思いました。
「ゆだねたらいいだけよ」と軽やかに宣言するクリスチャンを「これぞ、信仰の達人」だと思いました。
私の信仰にダメ押しされているような気持ちになってしまったのでした。
ここには、わたしの居場所がないのかもしれない。
こんなふうにして洗礼を受けて、離れて行く人もいるんだろうな。
しかし、聖書を大争闘の観点から読むことで私は変えられて行きました。
信じられずにもがくことは、信仰を盗もうとしているサタンがいるからだと分かりました。
疑いが起きるときには、神を疑わせようとしているサタンがいるからだと分かりました。
「原因」が分かれば、対処法もわかります。
御言葉であるキリスト・イエスにつながり続けることです。
さて、なぜ重要でしょうか?という重要な質問です。
「心に疑いが起きたときにもあきらめないことはなぜ重要なのでしょうか。」
自分の心に起きた疑いに焦点を合わせてしまうと、
自分の心がさまよい出てしまいます。
自家中毒を起こしてしまいます。
メンタルは疲れ果ててしまって、
「諦めてしまいたいスイッチ」が入ってしまいそうになります。
つまり、諦めてしまう事は、
イエス様から離れてしまうこと、
イエス様と自分の間に距離を置くこと、
隙間を作ってしまう事。
そういう状態を待ち受けている敵がいます。
「信じられずにもがき心に疑いが起きる」その時には、
①神さまがアダムに言った言葉「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)
②神さまのカインへの質問、(創世記4:6-7)、
③ハガルへの神の言葉「あなたはどこからきたのか。何処へ行くのか」(創世記16:8)
この三つの言葉を神様が私にも問いかけてくださっているという事に気づくチャンスなのです。
この言葉は、神さまが、私たちのことをあきらめていないから、たずねてくださるのです。
終末期の「調査審判」「再臨前審判」が、創世記にすでに出てきています。
マラナ・タ
「だから、あきらめてはいけません。
そういう状況の中で、神様の問いかけを聞き、
神様に立ち帰ることができるからです」