ごきげんよう!さわこです。

 

image

 

「成功している時や繁栄の時には、自然に起こる安易な信仰があります。

それは心の中に確実なものとして存在する信仰ではありません。

私たちは、悩みの時に揺るぐことない力となるような信仰が必要です。

外側の状況かどうであろうとも、心から神に信頼して残るふるいの時に耐えられる信仰が必要です。

何の困難も無く、試練も誘惑もない時に信仰するのはやさしいことです。」

(リバイバルはこうして起こる147-148ページ)

 

「すべてがうまく行き、生活がある程度信仰の告白と一致している時、信じたいだけ信じることができます。

しかし、霊的に暗黒となり、困難が洪水のように臨み、神が聖なる正しい裁判官のように感じられる時、ほんとうの信仰が必要になってきます。その時、あなたは、自分にほんとうの信仰があって、神に頼っているかどうかが分かるのです。」(リバイバルはこうして起こる 148ページ)

 

image

 

かつて私は、暗闇の中で祈りの格闘をしていました。

その時、辛かった助言は、「あなたは委ねていないから、苦しいのよ。神様にゆだねる信仰を持ちなさい」でした。

「あなたは感謝が足りないから苦しいのよ。」とテサロニケ第一5:16-18で諭されました。

 

私の信仰は、感謝とゆだねることの不足が原因だと。

そんなつもりではなかったかもしれませんが、信仰の浅い私には、御言葉でさらに苦しみました。

 

私が祈らず、感謝せず、霊の火を消し、吟味せず、良いものを大事にせず、あらゆる悪いものの近くにいるから、神さまにゆだねる信仰が持てないのだと、ますます暗闇に落ち込みました。

 

その時、この本(リバイバルはこうして起こる)の、このページを開いて、

「あなたに神様はほんとうの信仰を与えようとしておられる時かもしれませんね。神さまはあなたの試練に役立つ信仰をくださるお方です。この信仰書にはそう書いてあります」

と、言ってくれたら・・・と、あの時の複雑な気持ちを思い出しました。

 

私は「大切なことを教えてくださってありがとうございます」と、社交辞令を口にする自分の偽りの気持ちに苦しくなりました。

その時から、「ゆだねる、まかせる、感謝、喜び」この言葉を用いることの難しさを思うようになりました。

 

image

 

そして、聖書通読が始まりました。

それから20年がすぎました。

 

故、試練というものがあるのか?苦しみがあるのか?

 

「それは信じて祈っていないからだ」

「祈りが足りないからだ」

「喜びと感謝が足りていないからだ」

 

こういうふうに、聖書の一部分を取り出してしまうのは、あまりにも安易で幼稚な助言かもしれませんが、そうした助言によって、目が開かされたという人もいらっしゃいます。

 

しかし、しっかり基礎的な学びをしていたら、「ひとつの見本のような聖句」に相反するようにさえ感じる聖句のあることも知ることもできます。

 

image

 

これからますます、神さまの側にいるものは、苦しみに合うようになります。

正しい事をすればするほど迫害されることがおきます。

 

ですから、間違った理解をしていると、信仰を失いかねない時が来ます。

 

人からの助言はろくでもないと、ヨブ記は気づかせてくれます。

文脈から切り離した聖句を用いての助言は、すべきではないことが起きるのです。

 

使い方が正しいのかどうかは、人には、判断できないのです。

あの人にはぴったりだったかもしれなくても、この人には絶望感を与え、裁きにしか聞こえないこともあるのです。

 

ですから、聖句で諭すことは、難しい。

諭す側の自己満足におちいってしまうかもしれないのです。

人は神さまのことは、少ししかわからないものなのですから。

 

image

 

祈りには力がある。祈りは聞かれる。

 

本当のことなのですが、自分たちの思う方法できかれない場合のあることにもっと目を向けたいと思うのです。

 

願い通りに聞かれた、聞かれ続けたという高齢のクリスチャン女性の方の力強い証を聞いたことがあります。

必要とする物品が全て与えられたというクリスチャンになったばかりの若い女性の証も聞いたことがあります。

 

これらは、キリスト教限定の祈りの効果・祝福なのでしょうか?そういう訳でもないと思います。

他の宗教を信じている人たちも、同じような証を持っているからです。

 

祈りが聞かれないのは、信じて祈らないからだとか、祈りが足りないからだとか、叱咤激励する方もいらっしゃる。

そういう方が一緒に祈りましょうと言ってきても、逃げ出したくなってしまうのです。善意が善意として伝わらないのです。

 

image

 

しかし、イエス様がとりなしの祈りを、まどろむことなく祈ってくださっていると聖書によって知るとこの上ない慰めとなります。

 

でも、神様は実体が見えないから、とイエス様の絵を欲しがる人もいらっしゃる。

偶像に繋がるなんて思いもしないのです。

信仰が育っていく過程では、さまざまな育ち方があり、人それぞれなのです。

 

私には、リハビリテーションの壁に書かれた作者不詳の祈りは、強く深く響きます。

 

素晴らしい知識を得ることができる聖書研究会のような祈祷会もあります。

しかし、気をつけないと、そこに初心者が居合わせてしまうと、律法学者の集まりのように見えてしまうかもしれません。

「高尚過ぎて私には難しいです」と、言う方もいらっしゃいます。

 

また、具体的に祈るようにと教えられても、教会員の集まりというだけで、簡単に心を開くことは難しいものです。

心を安心して見せ合って祈るには確かに関係作りが前提なのです。

関係がない中でクリスチャンだからわかってくれると悩みを見せて、かえって苦しむ経験があります。

 

image

 

私たちは横の関係の前に縦の関係をしっかり築くべきなのです。

神様との縦の健やかな関係。

神様に取り繕うことのない、素の自己を明け渡せる関係を養っていくなら、語る言葉の取捨選択の知恵を与えてくださる聖霊の導きに無意識のうちに従えるようになるのかもしれません。

 

image

 

単純に祈り合う。

立派な祈りではなくても、たどたどしい言葉で何を言っているかわけわからなくなっても祈り合う。

祈りとは?なんて考える前に単純に祈る。

イエス様がそこにいてくださるから祈れる。

 

「イエスさま、○○さんの必要に応えてください」「アーメン」

 

そんな一言が、立派な信仰用語を繋いでの祈りよりも、悩んでいる人に届くのです。

 

「もっとゆだねなさい、信じなさい、喜びなさい」と言われるより、ずっと心に届くんです。

 

短い一言の祈りでいいんです。

 

image

 

マラナ・タ

ある方が、こうおしゃいました。

「祈りが聞かれた事よりも、聞かれないで苦しむ経験は、自分の信仰のためには必要不可欠だったように思えてきました。苦しみも神さまが益としてくださったのだと思えるようになりました。感謝。」

アーメン!!