ごきげんよう!さわこです

 

 

「現在の苦しみが、一時的な鍛錬である」とよく聞きますが、
この”一時的”が長くなった時、
「主の鍛錬」が「主の呪い」に思えてくる時があります。
そんな時、どうしたらいいのでしょう。

 

 

 
この問いかけは、私のクリスチャン生活そのものを支配しました。
 
その答えは聖書にしかない、
聖書は必ず答えてくださるとの確信を
アドベンチストの聖書理解の視点から求めるようにと導かれました。
 
(数あるキリスト教会の中からセブンスデーアドベンチストに、神様が私を導いてくださったことには、神様の御意志があり意味があるからだ、と考えたからです)

 

 

ユダヤ暦の祭に沿って聖書通読を毎日続けて、みことばを土台にしたデボーションに取り組むことでした。
 
まず、バプテスマに与って以来、できていなかった聖書通読をしなくては、始まらない。
聖書を一度も通読しないで、神様への疑いや質問を、世の知識や評論を漁ることで分かろうとするのは、的外れだと思ったからです。
 
また、自分の感情・直感・理解力を物差しとして聖書を読むことが、自分を軸とした自己流(自己中心・自己称揚、すなわち罪の性質に繋がる)と、うっすらながら思ったしからです。
 
それは、安息日礼拝を中心とした、聖書の学びや信仰生活の指針を与えてくれる中で、聖霊様が気づかせて下さったことでした。

 

 

年に一回の通読。
それを20回繰り返しました。
その方法は、神様の御心にかなったので、20年、継続させて頂けたのです。
私の努力ではなく、頑張りではなく、天からの力・恵みでした。
ユダヤの祭・聖所・律法・御言葉、全部イエスがキリストであられることを示していると解らせてもらえました。

 

 

キリストに日々繋がることによるキリストの内住を体験し続けて、私の信仰心にキリストの錨が降ろされました。
この方法は、私にとって一番の神様の与えてくださった方法でした。
 
マラナ・タ
主イエスよ、来たりませ
今日も私のうちに来てください。
主イエスの再臨を待ち望む信仰をくださる神様を讃えます。