ごきげんよう!さわこです。

エレン・G ・ホワイト「各時代の希望」

 第31章「山上の垂訓」」より

 

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キリストに従っている者たちであっても

正当な憤りというものがあるのは事実である。

 

神が汚されたり、

神の御用について悪口が言われたり

何の罪もないものが虐待されたりするのを

見たり聞いたりすると、正義の憤りが魂を動かす。

 

感じやすい道徳心から生ずるこのような怒りは罪ではない。

 

しかし、救い主は、

それより以上のことを

要求しておられる。

 

挑発と思われるようなことをされたとき、

怒りや妬みをほしいままにしてもかまわないと思うなら、

サタンに向かって心を開いているのである。

天と調和していないのである。

 

宗教的な奉仕に熱心でありながらも、

兄弟たちとの間に不幸な不和のある人々がいる。

神は全力を尽くして、一致をとり戻すようにと、要求しておられる。

 

そうするまで神は、彼らの奉仕を受け入れることがおできにならない。

 

マタイ5:44,45

「わたしは、あなたがたに言う。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。」

と、イエスは言われた。

 

これが、律法の原則であり、また、命の泉である。

 

キリストは、悔い改めた魂を、いつでも罪から引き離される。

 

主は、悪魔のわざを

滅ぼすためにおいでになったのであって、

すべての悔い改めた魂に聖霊を与え、

罪を犯さないように道を備えられたのである。