ごきげんよう!さわこです。

 

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あなたが哀れな罪人にならないように、キリストは人々の前で恥をかかれたのです。

裸で十字架にかけられ、犯罪者として断罪され、あなたの罪は彼の肩に置かれたのです。 

 

キリストは

「私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)

しかも

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」(ローマ5:20) のです。

 

昨日の昼過ぎの月。

八日月の翌日。

上弦の月の翌日。

上弦の月は曇り空で見えませんでした。

 

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IIテモテ4:10

「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい」とパウロは書いています。

 

デマスは、パウロの弟子で熱心な信者でした。

デマスの背信から、クリスチャンが直面する問題が見えてきます。

 

「昨日のキリストとの関係で止まるのではなく、今日、いや毎日キリストとの関わりを持つことが非常に重要なのです」

 

キリストとの関わりの無い熱心もあると思うとぞっとしました。

他人事ではありません。

 

コリント第一10:12を思いました。

「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」

これもパウロの言葉です。

 

キリストから離れると、立っていることができなくなります。

立ち続けることができなくなります。

 

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私たちは、時々、こんな言葉を聞いたことはありませんか。

 

「私は信仰が弱いから、迫害には耐えられないと思うの。だから、迫害の時が来るまでに、眠らせてくださいっていのるのよ。迫害を恐れなくていいの。憐れみ深い神様は、迫害の前に信仰の弱い人を眠りにつかせてくださるから」

 

どう思われますか?

 

信仰を持って間もない頃の私は、この助言に安心したのでした。

 

しかし、今は、そのようには思えなくなりました。

 

それは「憶測」じゃないかしらって。

 

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「迫害が問題なのではありません。私たちがこの神の愛を知っているかどうか、ただそれだけが問題なのです。」

 

迫害、云々を恐れるという事よりも、日々、神の愛を「知ること」が迫害の恐れを解決してくるのではないでしょうか。

 

「恐れるな、わたしは、あなたとともにいる」

イザヤ41:10 イザヤ43:5  ヨシュア1:9

まだまだ、他にも見つかはず。

 

もし、恐れを強く感じてしまうならば、それは「わたしを見よ」という緊急の神様からのメッセージだととらえることではないでしょうか。

自分の不完全さに目を向けるのではなく、神様に、イエス様に、目を向ける。

 

もし、それができないと言い張るならば、聖霊様の促しに耳をふさいでいる。

心を頑なにしている。頑固な自分に抵抗していないのではないでしょうか。

 

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マラナ・タ

迫害に目を向けるのではなく、「神」に「イエスさま」に目を向けることなんです。

その助けを日々してくださる「聖霊の神さま」を拒まないことなんです。