ごきげんよう!さわこです。
今日のクリスチャンの多くは、印象と聖霊の声を混同しがちです。
神ご自身が語られること以上に、私たちの人生に影響を与えるものはない。
私たちはものごとを、神の御手の働きと察知しているだろうか。
それとも、単なる偶発的な出来事と見ているだろうか。
(オズワルド・チェンバーズ「限りなく主の栄光を求めて」1月30日より)
気にしなくてもいいようなことを思い出してしまいました。
「あなたはなんでもかんでも、神様に持っていくんですね。
聞いていて感じが良くないから、ちょっと慎んだらどうかしらね、そういう話題の傾向」
って言われたこと。
確かに、人の価値観・世界観を見てから話さなくてはなりませんね。
でも、その人となりは、すぐには分からないこともある。
出会いを重ねて見えて来る事もある。
不快になってみて、自分の度量の小ささに気づいて、
あら、それが私。
そこで、出た言葉
「はい、ありがとうございます」
厄介な時には、その一言でよい。
少年サムエルのように
「主よ、お話しください」と言う習慣を身につけよう。
そうするなら、人生は神と織りなす愛の物語となる。
八方塞がりの状況になったら、
いつでも「主よ、お話しください」と言うのだ。
耳を澄ませる時を持て。
神さまからの懲らしめとは、訓練以上のものであり、
「主よ、お話ください」という地点に
立ち返らせてくれるものなのである。
神があなたに御前で決断させようとしておられる事には関して、
他の人の助言を決して求めてはならない。
もし求めれば、
ほぼ間違いなく、あなたはサタンのは側に立つようになるからである。
パウロ言う。「私は血肉に相談することパウロせず」(ガラテヤ1:16)と。
(オズワルド・チェンバーズ「限りなく主の栄光を求めて」1月30日より)