ごきげんよう!さわこです
ヨハネ福音書9章より
エレンGホワイト「各時代の希望」から抜粋
罪はこの世で罰せられると、ユダヤ人は一般に信じていた。
あらゆる苦難は、苦しんでいる本人か、あるいはその両親が何か悪いことをした罰だと考えられていた。
なるほど、あらゆる苦難は神の律法を犯した結果であるが、この事実は曲解されていた。
罪とそのすべての結果の張本人であるサタンは、病気と死は神から出るもの、すなわち罪の故に神が勝手に人に課せられる罰であると人々に考えさていた。
だから、何か大きな苦難や災いに見舞われた人は、大罪人として見られるという余計な重荷まで負わされた。
こうしてユダヤ人が、イエスを拒む道が用意された。
神はこうしたことを防ぐために教訓をお与えになっていた。
ヨブの経歴は、苦難はサタンから与えられ、神が、憐れみの目的を持って、それを支配されるということを示していた。
だが、イスラエルはこの教訓が分からなかった。
神はヨブの友人たちのあやまちを譴責されたが、ユダヤ人がキリストを拒んだことにその同じあやまちが繰り返された。
罪と苦難の関係についてのユダヤ人の信念は、キリストの弟子たちのうちにもあった。
イエスは、その男の苦難の原因を説明しないで、その結果をお告げになった。
すなわち、その苦難の故に神のみわざがあらわされるというのである。
弟子たちは、生まれながらの盲人に対して、誰が罪を犯したとか犯さなかったとかいう議論をするのではなく、盲人に視力をお与えになった神の力と恵みを理解するように求められた。
神のその力は、キリストのうちにあった。
目の見えなかった男はキリストの証人となった。
この男の苦悩を知っておられたイエスが、彼に恵みと言葉をお与えになったからである。
セブンスデーアドベンチト教会が、エレン・G・ホワイトの文書を信頼していることについて、一部の人々は、聖書の上にEGホワイトを掲げていると揶揄していることを私も知っています。
ヨハネによる福音書9章からのですが、SDA教会の山形俊夫先生の「預言の声通信講座」を学んで、生ける神キリスト様のご臨在に触れて、回心できました。
そして、EGホワイトの著作集を読むようになりました。
E・G・ホワイトの文書は、聖書の行間を書いてくれていると思うようになって行ったのですが。
人は、聖書の言葉の全部をストレートには理解できません。
そこを、理解したくて、神様の本質に迫まりたくて、呻吟するのですが。
そこで、聖書を照らす光として、使徒信条やら、カトリックの教義やら、プロテスタント諸教会の教理や神学を学ぶのです。
それと同じに考えられないのでしょうかしら。
マラナ・タ
批判精神の用い方を、誤まってしまうことがありませんように、お導きください。