ごきげんよう!さわこです
11月29日の朝の月です。
 
 
人の幸福とは、
神と神の遣わされたイエス・キリストを知ることである。
 
言葉が肉となって、私たちの間に宿られたのは、
イエスの一つ一つの行為に、
イエスの教えの一つ一つの教訓に
神を見るためであり、神を聴くためであり、
そうして神を認めるようになるためでした。
 
今日の光  2020.11.28より抜粋

 

 
 
イエス様のお言葉を思い出しました。
 
ヨハネ14:8-11
 
8、フィリポが『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、 
 
9、イエスは言われた。
   フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
   わたしを見た者は、父を見たのだ。
   なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
 
10、わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
   わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
   わたしの内におられる父が、そのわざを行っているのである。
 
11、わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。
   そしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 

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イエス様が人性をとられて、この地上におられた時、フィリポのように、いいえ、フィリポだけでなく弟子たちみんながイエス様が、三位一体の神ご自身であることを、よくわかってはいませんでした。
イエス様は地上で多くの奇蹟的な業を行われました。
それは、神が愛であること、そして、イエス様が父なる神(御父)の独り子(御子)であることを明らかにするためでした。
 
旧約の時代、出エジプト記では、神様は素晴らしいわざを次々となさいました。
紅海を二つに分けて、エジプト軍の追撃から助けられました。
雲の柱、火の柱で、60万人(壮年男子の数だから、女子供年寄り、さらについて来たイスラエル人以外の人々もいたので、200万人とも言われています)の人々の行程を導き守りました。
天から、「マナ」をふらせて、食料も与えてくださいました。
飲み水も岩から湧かせてくださいました。
 
イエス様が、「人性」をおとりにならないで、イスラエルの民と共に居て、奇蹟の業で絶え間なくお守りくださったのでした。
 
旧約時代の民も、イエス様が人としておられた時代の民も、神の業を目の前にしても、その時には「感激し、感動し」ても、次第に慣れっこになって行ったのでした。
罪が侵入した時代の人の心は、移ろいやすく忘れて行ってしまうもの。
 
申命記にも、神を覚えておくように、忘れてはならないと、繰り返されています。
聖書を読んでいても、繰り返し、繰り返し、イスラエルの歴史が記されています。
 
そうして、メシヤ(救い主)がおいでになることも、創世記3:15の原福音から始まって、預言者によって繰り返し語られているのです。
 
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マラナ・タ
聖書は、全体を繰り返し読んでいくことは、読む人のためです。
神様のことを忘れないためです。
「今日の光」や「安息日ガイド」は、神様のことをいつも思い出させてくれます。
学んでいると、つぎつぎの聖句が思い起こされて、デボーションという信仰の霊の散歩になって行きます。