ごきげんよう!さわこです。
この月は、数日前の朝、5時過ぎに眺めた東の空の月です。
二十六日の月、有明の月と呼びます。
翌朝、もっと細くなった「眉月」を見たくて
同じ頃に、この場所に立ちました。
しかし、雲に隠れて見えませんでした。
今日は、新月でした。
(月は、あるけれども見えません)
夜明けの空をうっとりと眺めながら歩きました。
「キリストの弟子ハンドブック」という本を読んでいます。
教会祈祷会で、輪読しています。
49-54ページより抜粋しました。
9月の終わりになって、屋上の室外機の横のブロックの間に大きな朝顔が咲いていました。
こぼれ種が飛んで来たようです。
もし、私たちが主の弟子となることを選んだのなら、
人間をとる漁師になることを選んでいるのです。
「魂を真理に導く重荷」を、
主はすべての教会員に負わせておられます。
イエスの重荷はあなたの重荷であるのです。
神は人を救うあなたの働きを通して、
あなたの魂をも救おうとされています。
魂を救う働きは、
あなた自身が天国に行くためにも必要な備えなのです。
悪に抵抗する力は、活動的な奉仕によって最も多く得られる。
私たちは教会を通してさまざまな方法で地域に奉仕をしていますが、
どんなに奉仕しても、それは個人的に証をすることの代わりにはなりません。
(奉仕を否定するのかと、誤解する人もいらっしゃるかもしれません。
もちろん違います。)
そこで日々の生活の中で真理を証しするためのいくつかのヒントをあげてみます。
・神があなたになされたことを証する。
・真理について書かれたトラクトや書籍を配布する。
・毎週の安息日学校聖書研究ガイドを他の人と勉強する。
・小グループで聖書研究をする。
世の中には、素晴らしいボランティアをなさる方が、それはたくさんいらっしゃいます。
キリスト教だけには限りません。
それでは、クリスチャンのボランティア活動とノンクリスチャンの活動とは、
どこが違うのでしょうか?
見た目には、きっと違いはありません。
善い行為、善きわざは、すべて神様から出たもの、神様に属するもの。
キリスト者である私は、こう考えます。
聖霊様の導きによって、
キリスト様がその人の内に住まわれるようになると、
神様の御意思が押し寄せてきて、
自分の頑張りや自己実現のためではなく、
その人に応じた善きわざを、
隣人のために行うようにさせていただくようになれる。
奉仕をすることが、
祈りに取って代わるのではなく。
聖書を読む事や学ぶことに、取って代わるのではなく。
奉仕が御霊の実となるのではなく。
聖霊様の働きがなくても、奉仕活動はできるのです。
それぞれの得意技を用いて協力し合うならば、
伝道のための教会行事だってできるのです。
密室の祈りをしなくても、
キリスト様との個人的交わりを怠っても、
人間の知恵と技術でできるものなんです。
「個人的に証をするように」と、このテキストは勧めています。
個人的な証し、とは何でしょうか。
キリスト様との御言葉に立つ交わりと祈りによって、
気づかないうちに、人格・品性が
変えられて行くことではないでしょうか。
その結果、
自己愛が砕かれて行くことではないでしょうか。
聖書には、イエスに出会い、イエスが救い主(キリスト)と呼ばれる神ご自身であると分かった時、イエスについて生きて行きたいと言う人たちが出てきました。
その生き方は、世の中で、成功者になるのではありませんでした。
十二使徒と呼ばれた人たちは、剣で殺され、首を切られ、逆さ十字架、斜め十字架に架かり死んでいきました。
マラナ・タ
「キリストの弟子になるとは」このことは、聖書を自分の都合に合わせた読み方をしているままでは、分からないことだと思わずにはいられません。