ごきげんよう!さわこです。

川風に吹かれながら、友と信仰のおしゃべり

 

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A子

聖書研究をきちんとすれば、偽聖霊ではなく、本物の聖霊の導きに従って読むならば、神様は聖書から真実をみせてくださいますのにね。

サタンにいいように変質されて行ったキリスト教に単純に失望する人もいますね。

 

B子

聖書から真実を知ることの大切さが、語られない時期が長かったですね。これもサタンの陰謀とも言えますよね。

 

A子

御言葉を霊的に読み取るイエス様との交わりである聖書研究が、「聖書という学問」「各教派ごとの聖書神学」「聖書神学という思想哲学」「神からの言葉を預かった預言書」から、世の終わりに関する記事に突出した「予言書的解釈書」になったりとか・・・

 

B子

そういう読み方になっていく裏には、全部、「自分中心」がありますね。

 

A子

「自分中心」ではない、聖書の読みかたって、重要ですよね。教えてもらっても、それを実行できる場合とそうでない場合がある。

 

B子

これは、時間と根気をかけなくてはいけませんから。

 

A子

結論を急ぐ人が多いのですよ。特に悩みや問題を抱えていて、教会員に誘われて来られる人は。時間をかけて、いろいろ、あれこれ、あっちこっちで、相談したりカウンセリングを受けたりしてきて、解決しなくて。

 

B子

そこで、いつも、喜んで教会に通っている姿を見て、「キリスト様に出会うと解決しちゃうかもしれない」って、一縷の望みをかけてしまう。

一方、そういう深刻な問題はないけれども、交友関係を広げたいとか、もっと充実感が欲しいとか、Somethingを求めている人もいるんですね。

そこで、Somethingを提供することで伝道につながるのじゃないかって、カルチャースクール的な教会活動になって行くこともありますよね。

 

A子

趣味の集いや、体に良いお料理教室。健康のためのスポーツクラブ。声を出すと言いのよ、って讃美歌を歌う会とか、こうした仲良しグループ活動が「これこそが、御霊の導き、御霊の交わりだ」って思いはじめるんですよ。

勿論、そういう入り口もあってはいいのですけれども。

 

B子

人とつながるのは大切ですものね。

でも、結局、中心に聖書がないと、人間関係につまずいてしまう。 

すると、人間関係を構築する前よりもずっと、キリスト教に対して拒否感が出てしまう可能性がありますね。

 

A子

聖書が中心にあっても、教会で構築したはずの人間関係がこじれていくこともありますね。

そこで、バプテスマ直前に離れて行く人もいますし、信徒になってから長期欠席者になって何十年という方もいらっしゃる。

 

B子

人は、交わりを求めるんですね。

 

A子

「人は一人でいるのは良くない」って、神様はアダムにエバを与えになりましたからね。

 

B子

サタンったら、なんて上手なんでしょ。

 

A子

人間関係に焦点を当てて、崩していくんですね。見事ですよね。

 

B子

サタンに対抗するには「神の武具」ですね。

聖書の御言葉ですよね。

自分に都合の良い読み方ではない、読み方ですよね。

そのためには、時間と根気が必要ですね。

 

 

A子

中には、「求めていたのは、これだっ!」という一つの御言葉で「救われた」と言われて、クリスチャンになったって方もいらっしゃいますよ。

 

B子

確かにいらっしゃる。でも、それで、迷うことなくクリスチャンの道をまっしぐらという人ばかりじゃないんですよね。

「あの時は、そう思ったんだけれどね・・・」って離れて行く人もいる・・・

 

A,子

そういう時も含めてなんですが、教会でしばしば聞く言葉がありますよね。

「結局、あのかたは、神様に委ねきれなかったのよね・・・」って。

 

B子

そういえば、この間、親の信仰を継承し、ミッションスクールで教育を受けて半世紀の信仰者から、『ゆだねるってどういうことなんだろう』って、質問されたんですよ。

 

A子

いまさら?(笑)

 

B子

そう、いまさら、なんですが、現実なんです。

 

A子

それは、その方の信仰の扉が、新しい扉が、開こうとしているってことでしょうか?

 

B子

イエス様との、真剣な出会いのチャンス到来とも言えるかもしれませんね。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、全てが新しくなったのである。」

 

 

A子

コリント第一5:17ですね。

そこで、どうお答えになったのですか?

 

B子

ゆだねている・・・と、どうなるかと言うと、「今、あなたが考え、神様に頼って戦うべき課題をくださるんです」って答えたんです。

 

A子

その方の反応は?

 

B子

固まってしまわれました(笑)

そういう経験はなさらないのかしら。

 

A子

私も今まで四半世紀以上の信仰生活なんですが「ゆだねなさい・ゆだねています」という言葉を教会でずいぶん聞いて来たんですが、こういう説明は初めて聞いたように思います。

「私が、神様に頼って戦うべき課題を、神様から与えられた」

それは、ゆだねることの説明というよりも、『ゆだねて生きてきたら、どうなったのか』という意味ですよね?

 

B子

あっ、そうです。質問の答えになっていなかったですね。

 

A子

多分、神様にゆだねたら、苦しみから逃れられて平安になると、いう期待をその方は持っているんじゃないですか?

 

B子

そうなんでしょうね。

クリスチャンホームで生まれ育って、キリスト様を信じて今まで生きてきたのに、そういう生き方そのものが「ゆだねる」と考えていらしたのに、人間関係での悩みは尽きないし、祈っても、解決しないし、平安とは程遠い毎日だし、だから『ゆだねるとは、どういうことか?』って質問が出たんだと思うの。

 

A子

ゆだねたら、平安な状況になるはずだ、って答えをもっていらしたんですね。

でも、イエス様のご生涯を考えたら、すべて十字架に続く道でしたよ。

弟子たちも、イエス様と無関係に生きていたら、ペテロは腕の良い漁師で、親方って呼ばれていたかもしれない。

パウロは、ユダヤ社会で律法学者として出世していたかもしれない。

ローマに対してぶつくさ言いながらも、この世でそれなりに地位を築いて生きて、逆さ十字架に掛けられて死ぬことも、首をはねられて死ぬこともなかったかもしれない。

 

B子

生き方の基準・次元がちがうんですね。イエス様に従って生きることは。

だから、「わたしについてきたと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」とおっしゃいましたものね。

 

A子

自分の十字架とは「この人生での戦うべき課題」であり、その戦いは神に全面的に頼らなくては戦えないのですよね。

そこでB子さんの答えにつながっていくんですね。

私、やっと、「キリスト教のゆだねる」が分かりました。

「自分の重荷を手放すんですよ」って、教えられてきたように思うんです。

でもね。そうじゃなくて「ゆだねる」とは、「イエス様の軛に一緒につながれる」ということじゃないかって。

 

B子

「人が生きていくって『神様から戦うべき課題を、つまり人生の課題を』頂くことじゃないですか。

その課題をこなすにあたって、神様(イエス様)に頼って助けてもらって、自分でできる分を果たしていくんですよね。

「お任せします」「ゆだねます」と祈ったら、おしまいじゃなくて、安心して戦いに出ていけるんです。

何にもしないでいることじゃない。

 

A子

「ゆだねる」って言葉のマジックに捕えられてしまって「ゆだねる」の本質がみえなくなってわからなくなってしまうんですね。

「ゆだねるってなんですか」って、いまさらのように、おたずねにになった半世紀以上のクリスチャンのお方の質問、素直な良い質問だったのですね。

 

B子

まだまだ、語り合いたいテーマがあるんですが、次にしましょうね。

 

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マラナ・タ

自分中心にならない聖書の読み方って、時間と根気が必要です。

時間と根気に聖書に向かう時って、それが習慣にいつの間にかなっていくうちに、

イエス様のご臨在を体験するようになっていくんですね。

これがAkoとBkoの対話の結論。