ごきげんよう!さわこです。
雨が毎日続きます。
栴檀の実にも水滴が。
昨日、小学上級生の分級はサムエル記上12章の学びでした。
教団から出ているテキストを用いているのですが、聖書を読み、
エレン・ホワイトの「希望への光」 を読み、備えるんですが、
この聖句がずしんと来たのでした。
サムエル記上12:23
「また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、決してしないであろう」
イスラエルの民は、サムエルの勧告にも耳を貸さない。
そこで、その頑なさに、神様はサウルをイスラエルの初代王として認めるのですが・・・。
預言者サムエルは22節で主について
「主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主はあなたがたを自分の民とすることをよしとされるからである」と語ります。
民は自分たちの言い分を主が聞き入れてくれると、その選択を主が賛成したと思い違いをしたのかもしれない。
しかし、主は、その民がいくら従わなくても、民を見捨てないのです。
見捨てないと言うのは、民が正しいからではない。
どんな時にも、神はご自分の民とされなさる、という、憐れみ深い神のご性質ゆえの言葉に感動してしまいました。
さらに、23節でのサムエルの言葉。
「わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、決してしない」
頑なでサムエルの言うことを聞かず我を通す民たちに向かって
「祈り続けるよ、祈ることをやめないよ」と。
「祈ることをやめることは、主に罪を犯すことになるから」と。
サムエルは語るのです。
祈りは魂の呼吸。
祈りは神さまへの直通電話。
祈ることをやめることは神様との関係が薄くなる。
すごく薄くなる。
神様の思いは変わらなくても、人間の側の思いが変わって行く。
神様の片思いになってしまう。
神様に対して「忘恩の民」となってしまう。
そういう意味で「罪を犯す」とサムエルは言っているのだと思います。
さらに、聞き分けのない民たちに対して、サムエルは、執り成しの祈りをやめないと宣言している。
祈りをやめると「主に罪を犯すことになる」というのです。
「罪」とは、神様との間を隔てるものだから。
ここで、「あなた、毎日祈ってる?もし祈ってないなら、罪を犯しているんだよ」と、この聖句を用いるようなことをしたら、それは、脅しになってしまう。
子どものクラスを持たせていただいていている者として、気をつけなくてはならないと、肝に銘じました。
そして、頑固で意地悪なことをお友達にされた時には、サムエルさんのことを思い出してほしい。
そういう人たちのために、祈ったこと。
祈るのをやめなかったこと。
そういう言うことを聞けない人たち。
意地悪をやめられない癖が身に付いている人たち。
そういう人たちは、神さまの助けがすごく必要なんだよ。
だから、こっそり、そういう人の悲しい心のために祈るんだよ。
「どうか、神さま助けてあげてください。
悪いことをすることから、離れるように、力を与えてあげてください」って。
祈りの言葉を紡げないほど、厳しいメンタル状態の人もいる。
「ああ、イエス様・・・」としか言えない人も。「神様、助けて!」と叫ぶしかできない時も。
ローマ8:26で慰めを得たのは、信仰を持ったばかりの頃でした。
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けてくださる。なぜなら、わたしたちは、どう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのために執り成してくださるからである」
子どもたちには、「失敗したり、お父さんやお母さんの言いつけを守らなかったりしたりすると、おとうさんたちは、『そんな子はうちの子じゃない。出ていけ。もう帰ってくるな。後から、謝って、済むとでも思っているのか。後からの、ごめなさいはいらない』って、言われたりする?」と、聞いてみました。
「ない、ない。ぜったいない!本気でごめんなさい、って言ったらゆるしてくれるもの」
世の中には、さまざまな家庭があります。
虐待する親も、育児放棄する親も。
愛されずに育ち、愛し方を知らない親も。
そういう、子たちに対しては、昨日のような対話はできません。
ケースバイケース。
雨がいっとき、降りやんで青空が見えました。