ごきげんよう!さわこです

 

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「わたしは復活であり、命である。

私を信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも

決して死ぬことはない」

(ヨハネ11:25,26)

 

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「キリストは、われわれが

キリストと一つ精神となるために、

われわれと一つ肉体となられた。

 

われわれが、墓から出てくるのは、

この結合によるのである。

 

すなわち、

キリストの力のあらわれとしてだけでなく、

信仰によってキリストのいのちが

われわれのものとなったからである。

 

キリストが

われわれのうちに住まわれるのは、

御霊を通してであり、

神の御霊が信仰によって

心に受け入れられる時、

それは永遠のいのちの始まりとなる」

 

(EGホワイト 「各時代の希望」 中巻135,136ページ)

 

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私たちはみな死にます。

しかし、イエスによれば、

イエスを信じる者にとって、

この死は眠りに過ぎず、

命の復活によって

終わる束の間の休止です。

 

キリストがおいでになる時には、

キリストにあって死んだ者たちは

不死の体によみがえり、

キリストに従う、生きている者たちは、

瞬く間に不死の体に変えられます。

 

これらのキリストにある両者は、

死んでいた者も生きている者も、

同じよみがえりの体を持ちます。

 

そのとき、神の民に不死が始まるのです。

 

(安息日学校聖書研究ガイド2021.6.23)

 

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人は死んだら、その後はどうなるのか?

多くの人が気にしていることです。

 

子どもの時には、祖父からこう教えられました。

「良く生きた人は、極楽(天国)へ。

悪いことをして生きた人は地獄へ。

嘘つきは、閻魔大王さんに、舌を引き抜かれるよ」

 

また、

「死んだらあの世にいくんだよ。

死という線をぴょんと飛び越えたら、

そこが、死んだ人たちの暮らす世界なのさ。

懐かしい先祖たちがいるんだよ。

あじいちゃん、おばあちゃんまではわかるだろうが、

その前の人たちの顔はよくわからないだろうけどね。

でも、多分、わかるんだろうね。」

 

「悪い人や、人殺しとか、そういう人もいるのかな?」

 

「死んでしまえば、もう悪いこともできなくなるから、怖がるこたあないさね」

 

「ふーん」

 

昔話やおとぎ話の世界のような・・・

どこまで、本気で聞いたらいいんだろうね・・・

 

正解に辿り着いてはいないままに30代まで生きてきました。

 

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さて、39歳で、クリスチャンになりました。

死んだらどうなるのかが知りたくてクリスチャンになったのではありません。

 

天国に行って、かわいがってくれた祖母に会いたいからとか言うのでもありません。

 

「洗礼を受けてクリスチャンにならないと一緒に天国に行けないのよ」と家族伝道をしていると聞いてびっくりしました。

 

天国に一緒に行くために洗礼を決心したとか、先に亡くなった我が子に会いたいから洗礼を受けたとか、そういう話にもびっくりしました。

 

私の決心した理由は、「生きづらかったから」

「生きる力」を得たかったから。

 

夫の曽祖父母は、明治の御世に、先祖伝来の「神道」から、キリスト教に回心しています。

曾祖母の墓碑には、ヨハネ11:25,26が刻まれています。

 

曾祖母は、死にたくなくてクリスチャンになったのでしょうか?

私が結婚した時にはもう亡くなっておりましたから、決心した動機を聞く機会もありませんでした。

 

徳川末期に生まれて、明治の中盤に、キリスト信仰を夫婦一緒に持った。

その理由は、後世の子孫たちの話題にも上ってはおりません。

 

ただ、その時代の有名なキリスト者たちの回心に至るエピソードから、曽祖父母の気持ちに思いを重ねるだけなのですが。

 

マラナ・タ

私は、安息日学校ガイド「黒字」)には、とても納得できます。

聖書に書かれていることが要約されているからです。