ごきげんよう!さわこです

2014年11月5日に投稿した記事です。
自分のブログで、探し物をしていて見つけました。
 
私にとって、記念碑となるものでした。
通読していて、このことが分かったと確認できたあの瞬間。
いつのことだったか、きちんと年月日を覚えていなかったのですが、こうして確認できたのがうれしい。
今から5年と数か月前。
読み返したら、黒い字も、緑の字も、見えづらくなっていました。
私の視力が弱ったのかもしれません。
それで、そのままリブログをしないで、手直ししました。
 
季節のお花も入れました。
2014年の時代は、写真の入れ方もわからなかったの。
 
紫陽花が咲きました。
 
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調査審判のわけ


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ごきげんよう! さわこです

SDA神学の一つに、天の聖所での再臨前調査審判というのがある。

そのことについて、勉強を積んできたのだが、わかったようなわからないような気持がしていた。
25年のSDA信徒らしい顔で、わかったつもりになって自分をごまかし、人をごまかすことはしたくなかっ
た。

数あるキリスト教会の中で、何故、私はSDAに導かれたのか?
カトリック幼稚園で育ち、
夫の実家の曽祖父母は、明治時代に日曜日の教会員であった。
夫の実家の近くに、戦時中に日本基督教団のひとつとなった、その教会は今もある。


それなのに、なぜ? 私の母の従姉たち家族がSDAだった、というだけでは理由にならない。

だから、私は、神様の救いのご計画を、SDA神学から、きちんと受け止めたかった。
もし、受け止めることも理解することもできないなら、私はSDA信徒として生きていくのには、気持ちがついていかないからだ。



ただ、仲良しの信徒さんがたくさんいるからとか、子どものクラスの聖書の時間に生きがいを感じているとか、そういう理由で、とどまるならば、教会が社交場であったり、教育機関であったり、自己実現の場であったり、自分を必要とされることを意気に感じていたりするボランティア団体と何の変わりがあろうか。

 

今年は、タチアオイが早いような気がします。


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昨日、信仰の友Mと語り合っていた。

そのときだった!
1844年10月22日から始まった天の至聖所での再臨前調査審判のことを語り始めた時、
聖霊様が言葉をくださったのだ。


よく聞く話は、こういうとき「異言を語る」というのだが、そうではなかった。
明瞭な自国語、日本語であった。
そして、不明瞭だった事柄を、私とMに分かる説明をしてくださったのだった。


レビ記16章に示されている、大贖罪日、それは一年間の聖所にためられた神の民の罪が、至聖所で、大祭司によってきちんと始末される記述です。

そのことが、歴史的に始められたのが1844年10月22日。
なぜ、その日と確定できるかについては、ダニエル書の解きあかしにあります。
わたしは、そこをまだまだ、わかる言葉での解説ができないので、先延ばしにしますが、その真理を受け入れています。

今年の大贖罪日、ヨム・キプールの日に、神様は私に理解できるように示してくださいました。

それで、キリスト様が聖所から至聖所にお移りになって、最終的な調査審判をなさっておられることが、自分のこととしてわかったのです。



昨日、Mに語ったのは、調査審判が私たちのためであること、バプテスマを受けてクリスチャンになった者たちのためであること、キリスト様を知らない人や受け入れていない人を対象としているわけではないことを、そこをごっちゃにしてはいけないということを語り始めたのでした。


自分の語る内容に、びっくりしました。
この言葉は、聖霊様によって、私たちの神様の大いなる救いの愛を、理解させようとしている内容だ、と気づいたので、
私は、ゆっくりと、自分の耳で、自分の魂に、理解できるように Mに 語りました。


私たちは洗礼を受けて、キリスト様の者となってからも、不完全で弱いものです。
キリスト様の義の衣に覆われていても、古い自分、今までの習慣や癖、思考回路が、私たちを支配しようとします。

他者との関係において、心が傷ついたり、自信をなくしたり、失望したりするときには、
古い自分の思考や、癖が、フラッシュバックしてくる。

ああ、こんな私は、救われるにふさわしくない。
ああ、悔い改めが足りない。
ああ、私は罪びとだ。いつまでたっても罪びとだ。
救われているのに、罪びとのままだ。

こんな思いにとらわれたことはないだろうか。

自分に厳しい人、思いやりの深い人、責任感のある人、純粋な人、誠実に生きようとしている人。
つまり、自分の欠陥や欠点を自覚して、神様によって救われなければ、とてもこの世を生き抜いていくことができない自分の弱さを自覚している人ほど、そういう罠にはまりやすい。

サタンはそれを狙っているからだ。

ファッション感覚で、自己実現のアピールの一環として、社交場として、西洋文明にあこがれて、教会員となった人には、この哀しみの深さはわかるまい。

そういう人を否定したり、軽蔑したりしているわけではない。
神様のもとにつながるには、その人の性格、気性、環境にあった多種多様な道筋がある。

そういう道を通って、バプテスマに至り、教会生活を楽しく始める場合だってあるのだ。
そういう人には、そういう人としての、伝道使命を神様は与えておられるのだ。

神様は、人それぞれの、特別プログラムを用意しておられるに違いない。


さて、洗礼を受けたにもかかわらず、自分がいまだに罪を引きずっていると自覚して魂は嘆く。

イエス様、この罪びとを憐れんでください。
イエス様、あなたを信じます。
私は、弱くて何もできないのですが、あなたは強い。

私の誠実は、シミがついていて、誠実を尽くした時でさえ、人によっては「不誠実」だといわれかねない代物です。
イエス様の誠実はほんものです。

イエス様、あなたの義で私を覆ってくださっていることを感謝します。
イエス様、あなたが、こんな私のために、日ごと執り成しの祈りをささげてくださっている。
イエス様、あなたの祈りによって、昨日一日、生きる力を頂きました。

それがなければ、私の魂は死んでいました。
自殺と言う方法で自分の肉体を死なせてしまうふんぎりはなかなかつかないのです。
でも、死んでしまいたい。もう、生きるのはつらい。
そのような気持ちになってしまうことが、人生の中で何度もありました。

洗礼を受けてからも、そうした思いにとらわれてしまったことも何度もありました。
しかし、その思いをイエス様の元に持っていき、嘆くことができました。
私の嘆きを、私の汚れた涙を、神様はイエス様の故に、誠実な祈りとして受け入れてくださいました。

調査審判でなされていることはそれだったのです。


「大丈夫、大丈夫、わたしの愛する独り子、イエス・キリストの御名によって、あなたの救いは確定しているよ。その証拠のハンコを押しておこう」

洗礼を受けてクリスチャンになった者に対しての、救いの確定、確実性。
天の至聖所でなされていることは、それではなかったのか。



Mが言いました。
「さわこさん、ふるいにかけられるって、そういう意味だったのですね。
ふるいにかけられるという言葉に恐怖がありましたが、もう、怖くはないです」


姫ヒオウギの白とツルヒメソバ


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主がお語りくださったものでないことを、主が語られたと、私が言っているなら、私は大ばか者です。不誠実な者です。


主からの示しだと思っていることが、自分勝手な、自分に都合よく解釈した捏造品だったとしたら、主よ、私はさばかれて当然です。

しかし、昨日の出来事は、Mと私に深い喜びと慰めを与えてくださいました。


もし、私の受け止めたことが光の天使を装ったサタンの惑わしであったとしたら・・・
「イエス・キリストの御名によって言う。サタンよ立ち去れ!」と宣告します。

主よ、憐れんでください。憐れんでください。
あなたを信じます。
あなたを信頼します。

 

 

マラナ・タ

この再臨前調査審判については、まだまだ、勉強中。

信仰は「漸進的」なものです。

徐々に徐々に、光が照らされて理解が広がって行きます。

2016年11月から、2021年5月21日現在までの私の理解。