ごきげんよう!さわこです。
琵琶の季節の到来です。
エレンG ホワイトの「2021.5.11 今日の光」より抜粋しました。
「聖書を単に読むだけでは十分ではない。
読む者の心が、聖霊によって動かされる時に、天の声が聞かれるようになる。
神についての知識は、知的な努力なしには得られない。
神の御言葉を理解するためには、聖書を熱心に研究し、聖霊の助けを求めるべきです。
一つの聖句に心を集中して、神の思想が自分自身のものとなるまで、瞑想するのです。」
20年も前のこと。バプテスマにあずかって10年経った頃のこと。
クリスチャンだもの、という「ねばならない」義務感や使命感もあるにはありましたが、それよりも個人的なさまざまな事情が重なり合って、聖書通読をするようにと導かれました。
「御言葉はイエス様」であることを、ヨハネ福音書1章から理解していました。
1:1-4
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので、言にいらずになったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
頭では、知的には、聖書にそう書いてあるからと、理解していました。
その理解が、知性だけでなく、感情での情緒的理解だけでなく、私の魂(全人格)が受け取っているかと言えば、そうではなかったのです。
確かなことは、毎日、イエス様にそば近くにいて頂かなくては、崩れてしまいそうだったという事実であり、現実がありました。
プロテスタントは「聖書のみ」と、聖書を強調しますから、神を知るには、聖書を通して読むことが大事だと言う事は分かっていました。
しかし、聖書を通読することに、深い意味があるとは、正直、分かっていなかったのだと思います。
また、聖書を自分で読んだり研究したりしなくても、宗教儀式や聖日の礼拝に与ってさえいれば、バプテスマを受けたものは、自動的に救われる(天国行きのチケットを手にしている)と「信仰」によって信じている信者もいるとは思います。
ほんとうに、聖書には、そのようには、書いているのでしょうか。
信者の人格や品性が変えられていなくても、「信じさえすれば」よいのでしょうか?
信じさえすれば「人格も品性も」イエス様の恵みが変えてくださるから、聖書を通読することになどこだわることではないのでしょうか。
中には、そんな必要はない。「ただ信じさえすればよい」「ゆだねさえすればよい」と確信をもって言い切る信者もいるかもしれません。
「かもしれません」ではなく、いらっしゃると思います。
そういう信者から見れば、私は「信仰の薄い者」であり、「信仰の足りない者」と分類されるのかもしれません。
「ゆだねることができないかわいそうな人」と、同情されてしかるべき信者であったと思います。
「かわいそうな人」である私は、毎日、イエス様のご臨在に触れている実感が必要だったのです。
信じるための根拠を「聖書」に求めて、聖書の御言葉から、毎日、イエス様の息遣い、ぬくもりに私の魂が触れなくては、今日の日を生きられないのでした。
今朝読んだ「今日の光」の勧告のように、通読をしていても、表面的な読み方、おざなりな読み方、単に字面を追うだけになったりすることだって実際には起きかねないのであります。
それを案じて聖書通読を評価しない信者もいたりするわけです。
そのような荒っぽい聖書の読み方をしてしまうことになるよりも、一つの御言葉を丁寧に読んで味わって黙想して行くことの方がずっと意味がある、と、考えるのです。
しかし、「通読をすると聖書を丁寧に読まなくなる」という決めつける根拠はどこにあるのでしょうか。
私自身、信仰を持ってからの10年間は、通読をしていませんでした。
「通読をすると聖書理解が浅くなる、通読を何回したかと競争するようになる。高慢になる」そうした弊害をあげて、
「通読って無理にするものではないのですよ。通読にこだわらなくても、毎日、好きな箇所や、気になる箇所を、また礼拝や祈祷会で示された箇所を読んでいれば、いつの間にか聖書全体を読んでいるのですから」
と、アドバイスをされたなら、では、どうして通読のススメをするのだろう?と、思いました。
「通読はしたい人がしたらよい。しなくてよいと思う人はしなくてよい。」それが結論なのかもしれません。
私自身も、あちこち読みであっても一つの聖句を瞑想することで十分に満たされていましたので、それで、良し、としていました。
小さいバラが、あちこちに咲いています。
20数年前、小学校の教頭先生をしている知人から
「さわこさん、クリスチャンだってね、聖書は何回読んだの?」
私はドキンとしました。
「聖書は、折々に読みますから、何回読んだかは分かりません。」
と答えながら、頭に「通読」というフレーズがよぎりました。
折々には読んでも、一度も読んでいないページだってあることを自覚していたからです。
恥ずかしい気持ちが広がって行きました。
そこで、通読にチャレンジしました。
二年かけて、どうにかこうにか読み切りました。
今度、教頭先生に訊かれたら「堂々と答えられる」とわくわくしました。
それから十数年後、病院の待合室で出会った女性と、聖書の話で盛り上がりました。
全く初対面の方だったのですが、学生時代にクリスチャンの友人に誘われて教会に行っていたこと、その時に買った聖書は持っているけれども、卒業して地元に帰ってからは教会には行ってないということなどを話してくださって、
「ところで、あなたは、聖書を何回、お読みになったの?」
「き・きた~!この方、もしかしたら学校の先生?」
口には出しませんでしたが・・・心がときめきました。
今度は、きちんと答えられたのでした。
「一年に一回しか読めていないのですけれども、今、10回目を通読しています」
「あなたはクリスチャンですものね。そうよね~。私、帰ったら、すぐ聖書を読むことにするわ」
名前も知らないままの不思議な出会いでした。
私は乳がんの術後の検診。
その方は、お母様の付き添いだと言っていました。
「神様のお導きがあって、また、再会できますように」と心の中で祈りました。
その当時、私はユダヤの祭に焦点を当てた聖書通読表を用いて読んでいました。
読み進むうちに「御言葉=イエス、律法=イエス、聖所=イエス、祭儀=イエス、ユダヤの祭=イエス」という法則が見えて来ました。
旧約聖書の中におられるイエス様を見つけていく魅力にとらえられてしまいました。
新約聖書の言葉は、すべて旧約聖書でできている!
新約聖書の書簡類は、旧約聖書の解説書だ!
一年に一回、20年続きました。
ところが21年目にして、挫折。
読めない日が増えてきました。
1週間分を溜めてしまうと、まとめ読みさえできない。
通読を始めて以来、初めての通読ストレスを感じてしまいました。
神様が、今まで、私に二十年間も、通読をさせてくださったことは奇蹟でありました。
その通読は、熟読に近いものでありました。
イエス様との交わりであるデボーションを、デボーションという言葉すら知らない時から「通読」を通してしていたことは聖霊様の導きでした。
私は、聖霊様を通して、主にある祝福をダイレクトに頂いたように思います。
通読をできなくなった今は、新しいページが開かれたのかもしれないのです。
なかなか進まず、ため込んでいた通読を思い切って、今年はやめることにしました。
通読はひとまず卒業。
新約聖書を丁寧に読み返して、証の書により、聖書の行間を読んで行くことにしました。
マラナ・タ
得て勝手な考えかもしれませんが、神様は、聖書を学ぶための新しい時間割を私にくださったのかもしれません。