ごきげんよう!さわこです。
春は、駆け足で過ぎて行く。
今日は4月30日。
5月と聞くと、初夏を思います。
「夏は来ぬ」と。
悔い改めていながら平安が無い人がいます。
私自身もそうでありました。
私の悔い改めは、本物でないかもしれない。
偽物かもしれない。
悔い改めもどきなのかもしれない。
つまり、私は偽クリスチャンなのではないか?
そういう思いに囚われて、祈りに行き詰まり、苦しんだ時代がありました。
あなたは、神を見ずに自分を見ているからだ。
あなたは感謝と喜びが足りないからだ。
あなたはゆだねていないからだ。
こうした三点セットの譴責から、私の心は平安からますます遠くなりました。
信仰的正論は、心を追い詰めます。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1の4)
イエス様のこの御言葉に光が差しました。
「エルサレム」とは、
偽クリスチャンであろうとも、そんな私を受け入れてくれた教会、
そして、私の今居る場所。 イエス様のおられる所。
「わたしから聞いた父の約束されたもの」とは、
御言葉、聖霊。
そして、私は、聖書通読と日ごとの朝のデボーションを始めました。
21年前、バプテスマから10年後。
「リバイバルはこうして起きる」179ページを要約します。
「彼は実際に悔い改めていました。その心は深い苦悶に満ちていました。
彼に欠けていたのは悔い改めではありません。彼の平安を妨げていたのは何でしょうか。
彼はパウロのように、自分の姿を見て示されて、惨めな思いになり、義と平和を求めながらも生涯惨めでした。
この惨めな状態を自覚していることは、神が彼を見捨てておられなかったことの確かなしるしです。
聖霊を受ける人だけが自分の罪を見ることができます。
心が汚れているのは罪のわざです。
しかし、心が汚れているのを知るのは神のわざです。
彼に必要なのは、イエスを愛しイエスに頼ることでした。」
以上
彼はイエスを愛していなかったのでしょうか?
イエスを頼っていなかったのでしょうか?
イエスにゆだねてなかったのでしょうか?
悔い改めは、
単なる反省ではありません。
神のもとに立ち帰る。
イエスを我が救いと信じることです。
それなのに、179ページの
「悔い改めていても、イエスを愛していないとは?イエスに頼っていない」 とは?
「リバイバルはこうして起きる」さかのぼって、175ページにヒントを見つけました。
要約します。
バプテスマを受けた人は、聖霊の力と内住のキリストによって、日ごとに古い性質に死に、新しい性質を身につけます。
しかし、それには時間がかかるのです。
十字架刑は瞬間的なものではなく、時間がかかります。
信じる者の性質は、容易く瞬間的に死ぬのではありません。
聖霊によって、地の性質、肉の性質、つまり古い性質を殺して頂かなくては、聖霊に満たされることはできません。
以上
やっと腑に落ちました。
彼の苦悶、私の苦悶の理由です。
悔い改めが足りないのではなく、
イエスを信じる信仰の欠如でもなく
悔い改めて神に立ち帰っても、
自分を十字架に掛けて死んでしまうまでには、
時間がかかると言うことです。
その時間は、快適なものではなく苦闘です。
しかし、一人で苦しむのではない。
イエス様がくびきをともに負うてくださる。
インマニエルなるイエスが共におられ、
共に苦しんでくださる。
それを、聖書から確認し、感謝と慰めをイエスから頂く。
日々のその交わりを聖霊が助けてくれる、導いてくれる。
そして、心が癒され、いつしか平安になっていることに気がつく。
一足飛びに古い自分に死にはしない。
喜びと感謝とゆだねることが出来ていないから、平安がないのですよと言われた時、悲しいだけでした。
惨めな状態とは、不信仰ではなく、
「神に見捨てられていないしるし」
何と言う慰めでしょうか!
マラナ・タ
悔い改めないとは、イエスと共にいないということ!
悔い改めとは、イエスと共にいること!
青空が見えました。