ごきげんよう!さわこです
今朝のウオーキングの時、久しぶりにアオサギ君を写すことができました。
望遠レンズが付いていないスマホなので。
これ以上大きく写せません。
2021.1.13 「今日の光」より
信仰と愛による信頼とをもって贖い主を仰ぎ、品性を形成するための力と知恵をいただきなさい。
御子が血を流してくださったのは、罪人が滅びることなく永遠の命を持つためである。
あなたが罪に陥らないように守ってくださる方に、喜んで協力するとき、あなたの決心は価値あるものとなる。
下劣で邪悪な品性の特徴は、すべて、キリストなるお方によって取り除かれて、あなたを健全なものとしてくださる。
あなた方は(私たちは)悪に対する先天的・後天的傾向との厳しい闘いに直面しているが、救い主にしっかりと信頼しなさい。
以上、抜粋
神様の導きのままに、おゆだねして生きる。
それは「神様と一緒に生きる。神様に協力することが前提ではないのかしら」
「神様に協力すること」は「ゆだねる信仰ではないのか」とあらためて思ったのでした。
黒いカモさん。渡り鳥らしい。
「神にゆだねる」「神にすべてをお任せする」とは、教会で、しばしば聞く信仰用語。
とっても、アバウトで、曖昧で、正しいんだけれども、情緒的過ぎで、言う側も聞く側も、なんだか幸せな真理に出会って、互いに共感し合って、「アーメン」で終了する。
「ゆだねる・まかせる」を別の言葉で言い換えてみてください」
何ていったら、最後、空気の流れが止まってしまう。
実は、数年前のこと、求道者であった友が、
「ある日のことね、全て委ねよ、という声が聞こえて、納得したの。満足したの。」
そう言って、彼女は、聖書研究をやめてしまった。
教会から足が次第に遠のいた。
今も、普通に、友達関係は続いているのですが、キリスト教の、聖書の深い話はしなくなってしまった。
彼女のキリスト教への関心が失せてしまって、話がかみ合わなくなってしまった。
「j神にすべてをゆだねる」という言葉のマジック。
「知ったつもり」になってしまう、怖さがあった。
教会でも「ゆだねたらいいのよ」と誰かが言うと、そこで、会話はストップ。
「アーメン」が行き交う。
そして、話題は、変わる。
祈祷会で、牧師が、「ゆだねるとは、表現を変えるならば」と語ってくださった。
「神様に自分を明け渡す」
「任せるとは、何もしないことではない」
「聖書を読むことも、お祈りすることも、誰かに変わってもらえるものでもない」
「キリストと絶えざるつながりを持ち続けること」
もし、生活の中に祈りの習慣がなく、聖書を毎日、読むこともなく、
それでいて「ゆだねています」と言えるのか?
「ゆだねる」が独り歩きしてしまって、
「ゆだねる教」に変質してしまったなら、サタンはほくそ笑んでいることだろう。
マラナ・タ
「私は、どういうふうなゆだねかたがをしているだろうか?」
各自、自分の信仰生活の棚卸をする必要がある。