ごきげんよう!さわこです
以前は、困難に思えた聖句でした。
しかし、今では、慰めと平安を頂きます。
私には、「祝福」 について、神様の御心を、求める上で大切な聖句となりました。
自分を迫害する者とは、キリスト教を禁じている国に赴く宣教師たちを思うかもしれませんが、自分の心をずたずたにする人間関係(意地悪する人、いじめる人、陰口きく人、噂話する人・・・等)のことも当たるかと思います。
そういう人のために「祝福」 を祈ろうとチャレンジするようにとのお勧めだと読んだのなら、それは、とても、きつく、苦しいことです。
それは、「祝福」 の定義を、誤ってとらえているから、とてもできないと思うのではないでしょうか。
その「祝福」 とは、経済的に満たされること。
有名な良い学校、安定した職種、良き配偶者と結ばれること。
健康な赤ちゃんに恵まれ、健やかに育ち、良い仕事に就くまで、育て上げること。
このような順風満帆の人生を送れますようにと願い、祈り、そして、思った通りの人生が与えられた時に、順境な人生をくださった神様に対して、感謝するのは当たり前のことでしょう。
そういう感謝は「おかげさまで」と自然に湧いて来ることでしょう。
しかし、逆境続きの人生であっても、神様に感謝を捧げる心を持たせていただけるならば、それこそ「祝福」と言えるのではないのでしょうか。
自分の思い通りにならなくても、
「にもかかわらず」
「たとえそうでなくても」
聖書の三位一体の神様を
「イエス様の御名」によって、信じ通し、感謝と讃美をささげ、神さまに栄光をお返し出来る信仰。
それこそが「祝福」ではないでしょうか。
もっと短い言葉で言うならば、「イエス様にある祝福」です。
「自分に都合のよい、物質的に満たされる祝福」ではないのです。
しかし「世の人の考える祝福」を、クリスチャンも考えている場合も多いのではないでしょうか。
自分を迫害する人の心は清いでしょうか。
その人のイエス様を信じる信仰は本物でしょうか。
迫害する人は、日々、イエス様とつながって生きているでしょうか。
そういう人も、回心して、清く正しい心を持って、イエス様を信じるようになってほしいとは思いませんか。
悪人が、意地悪な人が、新しい人に造りかえられること。
真実の悔い改めを持つようになること。
それが、神様の願いではありませんか。
そのようになってほしい。
つまり「イエス様にある祝福を得てほしい」との願い、執り成しの祈りをしていくことが、イエス様を救い主と信じる者たちの祈るべき祈りではありませんか。
主イエス様にある祝福。
つまり迫害する人が、イエス様と深い交わりを持ち、主イエス様の心と一つになりたいと強く願うようになること。
それが、つまり自分たちの品性が変えられると言うことが祝福だと思うようになりました。
マラナ・タ
祝福とは、悔い改めて、イエス様のような品性を持てるようになること。