ごきげんよう!さわこです
A4の用紙4枚の長い記事になりましたが、お付き合いください。
先月11月には「秋の祈祷週」がありました。
日本中の、いいえ、世界中のアドベンチストたちが、同じ読み物を用いて、信仰の自己吟味をしながら学び合い分かち合い祈りました。
秋の祈祷週読み物のテーマは「忠実なクリスチャンの生き方」です。
五日目の「クリスチャンの模範 十字架の道」からの学びを那覇教会の山地悟牧師の動画によって振り返る機会を得ました。
その中で「自己否定」という言葉の本質が次第に見えてきました。
クリスチャンになってから30年「自己否定、自己犠牲のお勧め」を、それこそ、耳にタコができるほど聞いて来ました。
人間は自分そのものの本質が「罪」であるのだから、自分を否定しなければならないとか、自分ではなく常に相手を(他者)を尊敬し優先しなければならないとか、言う人もいました。
「相手の方が間違っていたらどうなるの?」と質問したら「相手がどうであれ、その人を大事にしなさい。相手に恥をかかせてはなりません。相手が間違っているとかどうかは問題ではありません。ただただ、ごもっともと聞き流しておきなさい」と、言われたこともありました。「相手によっては、恥をかかせたとばかりに逆恨みされたり、その場に悪い空気が流れたりするのは好ましくありませんからね」と・・・(笑)
隣人愛と言うのか、処世訓というのか・・・(笑)
それだけ「自己否定」と言う言葉は混乱していました。
さて、聖書に示されている「自己否定」については、「聖書の御言葉」を基準に学ぶしかその本質には至らないのだとよく分かりました。
―「自己否定の道」とは?―とサブタイトルをつけました。
私たちが神様の御心に適う者として生きていきたいと考えるときにはその模範が必要です。
そのモデルとして私たちにはイエス・キリストが与えられています。
イエス様を信じますと告白して洗礼を受けたら、そしてどこかの教会の信者のリストに載ったら、後は自動的にその信仰は更新されて死んだら天国にあげられるのでしょうか?
それが恵みによる救いなのでしょうか?
そうではないはずです。
聖書にはそのようなことは書かれていません。
信仰は、生きている信仰は、成長していく成熟していくものであるはずです。
停滞、後退しているとしたら、その信仰の命は眠っている、名ばかりのものかもしれません。
そこで、リバイバルが叫ばれることになります。
世界中のキリスト教会で叫ばれるリバイルとは?
リバイバルとは「停滞していた信仰が、眠っていた信仰が、新しくされることを求める霊的運動」という意味だと私は理解しています。
私たちが聖霊を求めて祈る時に、私たちの生き方が変えられて、リバイバルの炎が燃える信仰生活となります。
私たちがみ言葉に自分自身を照らし合わせて行く中で、私たちがキリストの品性を見つめ、慕い求める思いの中で、日々、私たちの品性(人格)が変えられていく聖霊の業を経験できるようになるのです。
そして、もう間もなく来られるキリストの前に私たちが出て、「与えられたものをこのように用いました」と、管理者としての責任を報告することに備えるのです。
イエス様のお言葉を聖書から見てみましょう。
① マタイ19:21
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
この富める青年は、自分の生き方に足りないものがある気がしてキリストに尋ねました。
その時キリストは「私に従ってきなさい」とおっしゃった。
他の弟子を召すときにもそう言われた。
これは、私に倣い、私の生き方を模倣しなさいという意味ではないでしょうか。
弟子としての生き方の基本がキリストに従うことでありました。
それを具体的に言うならば、
② マタイ16:24
それから、弟子たちに言われた。
「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
私の弟子になるということは、私に従うこと。
そして、私に従うとは、自分を捨て、自分の十字架を背負って私についてくることだ。
私を模範にするとは十字架の道を歩むということだ。
とキリストは言われます。
「十字架の道」これは聖書にたびたび出てくるフレーズです。
自分が十字架を背負ってイエス様についていく道です。生き方です。
しかし、パウロはこれができている人はほとんどいないと言っています。
涙ながらに言っています。
③ フィリピ3:18
「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」
これは教会の中の人に向けた言葉です。十字架の道とは大変であり、多くの人はそこを歩きたくないと思ってしまいます。
④ マルコ1:35
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
イエス様の一日のスタートはこうして始まりました。
私たちは毎日、御言葉と触れ合うことが大事であるのです。
それなら、イエス様に倣うことはできなくもないと思えます (笑)
年齢と共に早起きを努力しなくても出来るようになってくるからです (笑)
キリストは毎日暗い時間から起きて祈っておられました。
なぜでしょうか?それには深い意味と目的があるのです。
⑤ ヨハネ5:19
「そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」
イエス様は自分のしていることに批判をするユダヤ人に対して、このようにお答えになりました。
「私は父に見せられたことしかしていない」と。
イエス様は父なる神様から今日一日なすべきわざを教えられてそれに従っていかれたのです。
⑥ ヨハネ5:30
「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
そして、私たちに、あなたも同じようにしなさい。とおっしゃっている。
父の御心を行うその歩みの頂点が十字架なのでした。
⑦ ルカ22:42
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
イエスキリストの生き方そのものをあらわしている祈りです。
人としてはできることならこの苦しみを去らしてくださいと願いますが、しかし、あなたの御心が行われるようにと祈られました。
イエスキリストご自身が自分を捨てて、十字架を背負って生きていくその生き方を全うされた。
本当にイエスのように生きたいと願う弟子、クリスチャンならば、同じように自分を捨て、十字架を背負って歩んで行く必要があるのです。
(しかし、私にはできそうもない・・・正直な気持ちです。不信仰だと思います)
⑧ フィリピ2:6~8
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
キリストの生き方とはどんな生き方だったのでしょうか。
それは一言で言うならば、十字架の道でありました。
それは自己否定と服従の生き方でありました。
その根底には御子なるキリストと父なる神の間の揺らぐことのない厚い信頼と愛情の交わりがありました。
神様に示されそれに従う。父なる神様への忠誠と愛によって生きられたのがイエス様でありました。
ライフスタイルの話をする時、自己否定と服従とは私たちの避けたいことであることに気がつきます。
趣味、食事、身に着ける物。そういう日常の中で、自己否定を考えると躓いてしまう私たちがいます。
清貧という生活に徹するならば、自動的に自己否定の生活になるのでしょうか?
清貧生活さえしていれば、自己否定となるのでしょうか?
イエス様のように父なる神に絶対服従する生活は、先ずライフスタイルを整えることから、始まるのでしょうか?
などなど、私の思考は迷い出します。
その論議は横に置いておいて、
富める青年に対しての聖書の場面に戻ります。
⑨マタイ19:21の 金持ちの青年は、キリストから二つのことを勧告されています。
1、財産を手放しなさい。
2、わたしに従ってきなさい。
これこそが、自己否定と服従です。
そうすると・・・キリストに敵対して歩んでいる自分に直面しない人などいるでしょうか。
この青年への勧告は、同時に「あなたはどうか」ということになります。
「自己を捨てて生きるとはどういうことか」という鋭い問いかけであります。
⑩ ルカ9:24
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
私たちの目標はなんでしょうか。
キリストを信じる者となった今、「キリストの品性を受けること、キリストのようになる(クリスチャン)こと」が目標になります。
聖霊を受けたときに、私たちが向かっていく方向は、キリストのように変えられていくことになるのではないでしょうか。
(まず、清貧のライフスタイルを実行するというプロセスがなくてもいいの?「聖霊」を受けることが、そもそもの、前段階なの?)
そのプロセスには原則として「自分を手放し、キリストを受ける」ということの繰り返しがあるのです。
金持ちの青年は「財産を手放し、私に従いなさい」と言われました。
「何かを手放しキリストを受ける」と言う事ですが、彼は自分を手放せなかったのでした。
人にはライフスタイルの中に手放したくないものがあります。
「それを手放しなさい。命を失いなさい。そしてわたしを選びなさい」
という選びが私たちの日常に常に置かれているのです。
こういうふうに考えたら分かりやすいのかもしれません。
①「人を傷つける言葉を言ってはいけません。」という言葉に従わず、手放さなかったら、人を傷つけることによって、キリストの与えようとしておられる祝福を失ってしまう。
②「人を赦しなさい」と言う言葉に従わず、それはできませんと握りしめるときに、キリストの与えようとしている赦しを私たちは失っている。
③「自分を捨て私に服従しなさい。」
自分の思いがなんであれ、キリストの思いが示された時、それに従う。それが十字架の道。
それがどんなに手放しがたいものだったとしても。
キリストでさえ、手放し難いものがあった。
しかし、キリストは神の御心を選ばれた。
こんなたとえ話があります。
アフリカでの猿狩りの方法です。口が狭いツボに果物を入れてジャングルに置いておく。猿が手を入れて果物をつかみ、手を抜こうとすると手が抜けない。そして、バナナを握ったまま逃げられない猿を人が捕まえにくる。
手離せないと思っている自分の命。
それがあると私たちは自分を失うのです。
十字架の道、イエスキリストの行き方に倣っていきたいとの願いを持って、神様が「私たちに手放しなさい」と示しておられるもの、その自分の心を、御言葉に照らし合わせながら、毎日、神様の御心を探って交わりを続けているのであれば、必ず、私たちに聖霊様が働いてくださる。
その時には「はい主よ。私は自分の思いよりもあなたの御心に従いたいです。」と、言って、自分を否定する自分の姿に自分が驚愕するのかもしれません。
マラナ・タ
キリストのようになりたいから、そのために自分を手放す踏ん切りがつきますように。
この自己否定と服従の生き方の選択が、私たちのライフスタイルのあらゆる領域でできるようになりますように、と祈ります。