ごきげんよう!さわこです

 

霊的な人、肉的な人 ― 違いはどこにあるのか?(2)

(60日の祈り第17日目 2020年12月6日(日)より引用

 

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、

霊の人に対するように語ることができず、

肉の人、つまり、キリストとの関係では

乳飲み子である人々に対するように語りました。

 

わたしはあなたがたに乳を飲ませて、

固い食物は与えませんでした。

まだ固い物を口にすることができなかったからです。

 

いや、今でもできません。

相変わらず肉の人だからです。

お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、

あなたがたは肉の人であり、

ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」

 

(コリントの信徒への手紙1・3章1~3節)

 

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霊的な教会員

 

霊の人は真のクリスチャンです。

「霊の人」と呼ばれるのは、聖霊によって満たされているからです。

霊的な人は、その人の個人的な聖霊との関係によって特徴づけられています。

聖霊によって成長する良好な関係を築いています。

 

「霊の人は一切を判断しますが、

その人自身はだれからも判断されたりしません。

『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』

 しかし、私たちはキリストの思い(*霊)を抱いています。」

 

(コリントの信徒への手紙1・2章15、16節 *括弧内は著者によるもの)

 

キリストが「生活の中心」であり、心の真ん中にキリストがおられます。

 

霊の人は完全にキリストのために生き、日ごとに、毎朝、すべてのことについて自分自身を献げているのです。

 

ラオデキヤへの手紙の中では「熱い」部類に入りますし、十人のおとめのたとえ話の中では「賢い」おとめです。

 

ローマ人への手紙8章1~ 17節とガラテヤ 5 章にももう少し詳しく記されています。

 

命を「豊かに受ける」(ヨハネによる福音書10章10節)経験をする人であり、パウロによれば「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」人なのです。(エフェソの信徒への手紙3章19節) 

 

 

彼は「信仰によって救われ(た)」ことを喜んでいます。(同2章8節)

挫折と誘惑に遭いますが、自分の目を常にイエスに向けています。

 

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肉的な教会員

 

肉的な人は、神との分裂した、みせかけの関係を持っています。

心の内でひそかに聖霊に無関心であるか、あるいは公に反抗的です。

 

ここで使徒パウロが言わなければならなかったのは、冒頭でも引用した言葉です。

 

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、

霊の人に対するように語ることができず、

肉の人、つまり、キリストとの関係では

乳飲み子である人々に対するように語りました。

 

わたしはあなたがたに乳を飲ませて、

固い食物は与えませんでした。

まだ固い物を口にすることができなかったからです。

いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。

 

お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、

あなたがたは肉の人であり、

ただの人として歩んでいる、

ということになりはしませんか。

 

ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、

他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、

あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」

 

(コリントの信徒への手紙1・3章1~4節)

 

ここで定義される基準は、

私たちの聖霊との関係であると結論づけることができます。

 

肉的な人とは、肉によって生きる人、

つまり聖霊によるのではなく、

生まれながらの人間的な力によって生きる人です。

 

そして、最大の悲劇は、

永遠の命を受け取ることを選んでいない

ということなのです。(ローマの信徒への手紙8章9節)


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【神のみことばによって祈る】

私たちは、肉的な動機で求めていないでしょうか?

主よ、私たちが聖霊を求めようとしなかったために、私たちは霊的貧困の中に生きています。

あるいは求めるときにも、自己中心的で人間的な動機で求めているのです。

私たちの祈りを変えてください。そして私たちをみ霊によって導いてください。