ごきげんよう!さわこです
今日の日没
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
(ローマの信徒への手紙12章1節)
神に完全に委ねることが、救いと、再生と、罪と誘惑に対する勝利であり、聖霊に満たされることなのです。
明日は満月です。
使徒パウロは、ダマスコ途上で神に召されたときに、過去の古い生き方と計画とをあきらめなければなりませんでした。
パウロはローマの信徒への手紙の中で、信者たちに次のように促しています。
「あなたの体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」
「あなたの五体を、義のための道具として神に献げなさい」
天来の力によって導かれ支配してもらうためには、魂をあけわたさない限り、いくらキリストについて語り、聖霊について語っても、神が与えてくださった贈り物である聖霊を受け取ることはできません。
人間である私たちは、自由を失うことに強い抵抗を覚えるので、明渡すことが容易にはできません。
しかし、人間の自由は、神の御目には、不自由だと分っているのです。
ルカによる福音書15章の放蕩息子の話を思い出しました。
自分の考える自由を求めて父の家から出ていった息子の物語です。
父の生きている時から財産分与を要求して、大金を持って都会に出ていきます。
息子は自由になったと思いました。
自分のしたいように好き勝手に生きることが最高に幸せな自由だと息子は思っていました。
息子は都会で出会った悪い仲間に、さんざん利用されてお金は瞬く間に無くなってしまいました。
一文無しになってぼろぼろになって父のもとに帰ってきます。
息子は愚かなことをしたあげくようやく目が覚めたのです。
父のもとにこそ、真の自由があったことに。
ところが、父のもとにいた兄息子は、真の自由を手にしていたかというと、違いました。
父のもとで、父と一緒に働くことに喜びを持っていませんでした。
自主的に喜んで従っていなかったのでした。
兄息子もまた、別の形での放蕩息子でした。
兄も弟も失われた魂と呼びうる存在でした。
私たちが、神様と心一つにして、自主的に神様の戒めに従って生きない限り、不自由なのです。
そういう人間が、弟息子のように「われにかえる」とき(心の目を開くとき)神のもとに立ち帰ることができます。
それを悔い改めというのです。
人が神様のもとに帰るためには、イエス・キリストの執り成しが必要です。
イエス・キリストとの関係をいつも維持し続けるとき、私たちは新しく造りかえられるのです。
神が私たちになそうとしておられることは、私たちをいやし、解放し、全面的に改革し、私たちの性質をまったく新しくすることなのです。
私たちは自己をすべて神にささげることで、再創造していただけるのです。
祈ります。
父よ、新しく造り変えてくださるとのお約束に心から感謝します。
日々あなたに委ねることを教えてください。
あなたの力によって、すべてにおいてあなたに従うことができますように。
マラナ・タ
私たちが、神様に完全に委ねるときに真の自由が得られる。