ごきげんよう!さわこです
昨日の通読デボーションから
聖書通読マタイ8章より
イエス様は病人を癒やすために多くの時間をさかれました。
その奇蹟は、滅ぼすためではなく、救うために来たのだとの御言葉の真実の証明でありました。
夏の花。おしろいばな。
マタイ8:5-12
部下思いのローマの百卒長
「わたしも権威の下にあるものですが・・・行けと言えば行き、来いと言えば来る、せよと言えばする・・・」(9節)イエス様は、百卒長のこの言葉に、イスラエル人の中にも、これほどの信仰をみたことがないとおっしゃいました。(10節)
神様との関係はこれに尽きます。
今はもう高校生になった私の小学上級生聖書クラスの少年。
当時、小学5年生でした。
「ぼくは、部下思いの百卒長が好きです。こんな人になりたい」
私はほろりと涙が出ました。
6年くらい前の思い出です。
さて、権威ある存在に従うことについて、考えてしまいました。
以下、
完全に神様に従うことは、自由主義教育を受けた世代の者にとっては、昔の人以上に困難かと思います。
徳川政権下からご維新があり、社会秩序が一転しました。価値観が崩れました。
武士階層にとっては、お家が大事、殿様第一。そうした思想は美徳ではなくなりました。
戦国時代の下剋上さながらとなり、その状況をよしと出来ない武士階級の人々が、キリスト教に触れた時、殿様をイエス・キリストなる神様に置き換えさえすればよいのだと気づきました。
そこで、有名な本が書かれました。
新渡戸稲造の「武士道」です。
さらに、内村鑑三の「代表的日本人」も。
明治時代の有名なキリスト者。
また、ヤクザさんからクリスチャンになった人が、「親分はイエスさま」と理解してかたぎの人となりました。
本も書かれましたし、映画化もされました。
新渡戸稲造も、内村鑑三も、そして現代のやくざさんも、全く同じ現象。
夫の曽祖父も、明治の御世になり、武士では食っていけないと、新たな仕事について、やがてキリスト者となりました。
単なる欧米文化へのあこがれというのでもなく、
今までの主従関係を重んじる価値観を、捨てることを潔しとできない者たちにとって、キリストの教えは外国の宗教以上のもの。
そこに日本人として本質を見出したのだと思います。
日本人の価値観の否定ではなく、大切なものは古今東西かわらないと。
神様と人間の間柄は、主従関係そのもの。
救われるとは、そういうこと。
神を我が主とすることなしに、救いはない。
昨日の朝のデボーションとなりました。
マラナ・タ
陽が落ちて、涼しくなったころ、ウォーキングに出ました。
救われるとは、創造主であり贖い主である神に立ち帰ること。