ごきげんよう!さわこです
「見えないものに目を注いで」 山形謙二著 ―ハンセン病者の手記ーより
姉妹教会のステンドグラス
昨年の9月だったでしょうか。隣県の姉妹教会で、山形先生の講演会があって行ってまいりました。
その時の、お話の中に、松木信さんのことが出てきたのでした。
帰宅してすぐ、アマゾンで検索して、
「生まれたのは何のために―ハンセン病者の手記ー」を古本で見つけました。
山形先生のこの著書の108-117ページには、
松木さんの壮絶な人生の中でのキリスト様との出会いが書かれていました。
以下
「生まれたのは何のために」という本があります。
副題は「ハンセン病者の手記」となっています。著者は松木信さん。
1934年16歳の時に「らい」の宣告を受けたのです。
そして、翌年、日本初のハンセン病の国立療養所に入所しました。
それから50年余り、厳しい監視と検閲の中、全ての自由が奪われて、出口のない刑務所のような収容施設で生きていく事になったのでした。松木さんは、「自分は何者なのか、自分は何のために生まれてきたのか』と常に問いかけるようになります。
松木さんはこのように書いておられます。
「このような状況の中で形成されていったのは、罪意識であります。ライであることが、人間に対して罪を犯しているのだという、罪意識であります」
松木さんは「人は何のために生まれてきたのか」という根源的な問いを持つようになりました。
それを解決するために内外の文学書を読破していく中で、ドストエフスキーの小説の中に自分自身の分身を発見したのでした。ドストエフスキーの小説は、聖書とは切り離して考えることができないものでした。1941年に洗礼を受けたのですが、当時の心境をこう書いています。
「生きようとすれば、神は無く、死を求めると、神の怒りが臨みます。生きることも、死ぬこともできず、まるで半殺しにされた状況で、洗礼を受けました」
やがて同じ施設に収容されているクリスチャン女性と結婚しますが、まもなく結核性腹膜炎を合併し妻はなくなります。その4か月後には一夜にして失明してしまうのです。失意と絶望の極限の中で、一人の友人が新約聖書のローマ書3章21-26節を読んでくれるのです。
「すべての人、罪を犯したれば、神の栄光を受くるに足らず、
功(いさお)なくして、神の恩恵(めぐみ)により、
キリスト・イエスにある贖罪(あがない)によりて義とせらるなり」
(ローマ3:23,24文語訳)
その時、聖書の言葉が突然、生ける神の御言葉として迫ってきました。松木さんは、
「十字架を負って聖書から抜け出し、私の前に立たれたキリストを見た」
と述べておられます。彼は、ここで初めて、生ける救い主キリストに出会ったのでした。
しかし、その後の松木さんの信仰の歩みは、決いて平坦なものではありませんでした。
彼の一番の望みは聖書を読むことでした。彼は、ただただ、神の御言葉に飢えていたのです。失明の上、末梢神経がマヒしているために、点字の聖書を読むにも指が使えませんでした。口唇を使い、舌を使い文字通り血みどろの訓練をしましたが、知覚のないことが判明して断念せざるを得なかったのです。
彼はこう述べているのです。
「聖書を読めないことが苦しかった。
神を知った苦しみは、聖書が読めないことであった」
1950年の暮れから、1961年の10年余り、身体的な盲目と心の暗闇の中で、ただ、壁に座しているだけの生活でした。
やがて、病友のボランティアに1日1時間、聖書を読んでもらうことになったのです。そして彼は新約聖書全巻を暗誦することを決意したのです。
「聖書の暗誦は、驚きの連続であった、一語一語が生ける神の御言葉となって私に語り掛けた。生ける父なる神と主イエス・キリストを知った喜びは、想像を絶し、命の満ち満ちた世界であった。」
以後、信仰一筋のクリスチャンとして「生きる」意味を問い続け、多摩全生園の患者自治会長を長く務め、収容患者の待遇改善のため尽力しました。さらに、患者たちを差別し苦しめた「らい予防法」廃止に向けて積極的な活動を行ったのでした。そして1996年「らい予防法」は廃止となりました。また、青少年たちの寮父となって、施設の青少年たちの面倒も見ました。
松木さんは、自分の不幸な人生を「十字架の光」を通して見ることができたのです。
松木さんは、この「屈辱の人生」を「イエスとの出会いのために準備された人生」と言うのです。
「十字架を通して見る時、それがどんなに絶望的な生であっても、全てが、イエスとの出会いという一点のために、準備されたものであることを知るのである」
マラナ・タ
十字架を通して見る時、
それがどんなに絶望的な生であっても、
全てが、イエスとの出会いという一点のために、
準備されたものであることを知るのです。
このことは、松木さん限定のことではないはずです。