ごきげんよう!さわこです。

 

今、読書中の本。

 

静思の時とは、クリスチャンが神に近づき、神との交わりを持つために、特に設ける時間を指す。(「静思の時」45ページより)

 

初めて聞く、「静思」という熟語。

読んで字のごとし、静まって思うこと。何を、神様を。聖書を読んで、神様のみこころに思いを巡らせる時間。

クリスチャンにとって、かけがえのない神様と過ごすひととき。

 

時々ではなく、ごくたまにではなく、気が向いたときだけでなく、困った時だけでなく、毎日。

毎日、最低一回、どんでもない、朝、昼、夕、いいえそれ以上かも。

外出時、聖書を持っていなくても、御言葉を一つ、ドロップの様に味わいながら。

 

静思の時とは、ディボーションタイムのこと。密室の祈りのこと。

そういうふうに、私は理解しました。

何て素晴らしい熟語。

昔むかし、伝来した漢字を、自在に使いこなし、明治になって数々の熟語を造った日本の知者たち。

多くを福沢諭吉翁が作られた。

誇るべき日本民族。

 

 

どういうわけか、90度、傾向いて写りました。

でも、直せない。

機械のことはよくわからないけど、見えますね。

 

 

バプテスマを受けてすぐに読んだ本の1つに、三浦綾子著「ちいろば物語」榎本保郎牧師の伝記がありました。

その時アシュラムという祈りの修養会について詳しく書かれていました。

毎朝、自室のどこか場所を決め、座布団一枚でもいいから、時間も15分から始まってもいいから、聖書から聴いて祈りの祭壇を築きなさい、ということが書かれていました。

榎本牧師の「ちいろば」も読みました。

 

 

そうして、新生したばかりのクリスチャン生活が始まりました。

まだ、ディボーションという言葉も知らなかった時代。

 

それから10年が経ち、ユダヤの祭を追いながらの聖書通読が始まり19年。

 

知らず知らず、ディボーションなるものと共に歩む信仰生活。

15分でのスタートはたちまち、1時間にあるいはそれ以上に。

 

細切れの時間を見つけては、ところ構わず祭壇を築く。瞬時の密室の祈り。

 


昨日から読み始めた「神に根ざして生きる」の前書きにも、内的デボーションについて同じことが書かれていました。

内的ディボーションについてはまた後程に。

 

自分のデボーションの取り組み方を振り返り、検証し、修整し、ご都合主義やわがままになっていないか、気づかせてもらい、神様にお詫びと感謝を捧げ、これこそ私が受けている神様の愛と祝福だと、ただただ有り難く。 

 

 

マラナ・タ

聖霊様に導かれ、「おん父上さま、おん父上さま・・・イエスさまの御名により」と言葉も紡げないまま祈りました。