ごきげんよう!さわこです。
マタイによる福音書25章14-19節には有名なタラントンの譬えがあります。
私は二人の信仰の友と三人で、タラントンの譬えからデボーションをしていました。
コロナウイルスの影響でそれぞれの教会での礼拝も祈祷会も閉じざるを得なくなりましから、インターネットを用いてのオンラインでの分かち合いです。
1タラントンとは、20年分の年収に当たります。
1タラントン、2タラントン、5タランント、を三人の僕たちはそれぞれ預かりました。
1タラントンもらった僕は、穴を掘って土の中に埋めたのでした。
この時代には土の中に埋めることは、盗まれても罪に問われない、もっとも安全な管理方法でした。
1タラントンもらった僕が働くことができない状況にあったのなら、この方法は素晴らしいのではないでしょうか。
しかし、主人は怒りました。どうしてでしょうか?その答えは24節25節にあります。
『ご主人様、あなたは蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました』と。
この僕は、重病人でもなければ、寝たきりで日常生活を自力で過ごすことのできないような人ではないことが明らかです。「出かけて行った」のですから。土を掘ったのですから。体力ありますよね。さらに、彼が主人のことをどのように考えていたのかが分かります。そこが肝心です。
僕は、主人が決して失敗を許さない厳しい人だと考えていたことがわかります。
しかし、僕の思いは間違っていたのでした。
15節の『それぞれの力に応じて…預けた』というところに注目してみるとよく分かります。
主人は不公平なのではなく、僕のことをよく知っているのです。
そして、そこには主人の僕たちへの期待する心が読み取れます。
タラントンはタレント(才能)の語源であると言われますが、単なる才能、以上の意味があります。
私たちのこの世の中には格差があります。人生の歩みには違いがあります。
自分ばかりが大変な人生を歩んでいるかのように思うこともあります。
人生が不公平であるからと言って、神様は不公平なお方なのでしょうか?
神様は私たちの力に応じてタラントンを託してくださるのです。
どのような人に対しても、神様は『この人は必ず、歩める!』と期待してくださっています。
『私が私の人生を歩む』とき、与えられる出会いの恵みがあるはずです。
確かに、与えられた重荷が重すぎてつぶされてしまいそうなときもあります。
もうお手上げだと逃げ出したくなる時も、自分の不運を呪ったまま死を選びたくなる時もります。
戦時中を生きた人、経済の高度成長期やバブルの時代に生きた人、景気の低迷する時代に生きている人、どんな人であれ仕事にありつける時代に生きた人、働きたくても仕事のない時代に生きている人・・・そして、終末の時代には絶望感を持つ人が増えてきます。
2020年、1月から、コロナウイルスの世界的な伝染により、WHOが世界に緊急事態を宣言しました。もしかすると14世紀に大流行して、当時のヨーロッパの人口の30~60%が亡くなったペストのような状況が世界中に再現されるかもしれません。そこへ追い打ちをかけるようにアフリカからバッタの巨大群が襲来してきました。今のこの状況は今後どのように発展していくのでしょうか?この終わりの時代に、いったい何をどのように準備すべきなのか、すでに準備のできた信仰生活であろうか、との危機感を私たちは持ちました。
このタラントンの譬えは、緊迫感を持って私に臨みました。
神様を正しく知っているか? 自分に与えられた賜物(タラントン)をきちんと用いているか?
土地の中に隠した僕に対しての興味深い主人の言葉があります。
「それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば帰って来た時、利息付きで返してもらえたのに(」マタイ25:27)、
私たち3人が注目したのは「銀行」でした。
ええ?イエス様の時代にユダヤの国では銀行があったの?という意外性でした。
ここから、3人の分かち合いがはじまりました。
A子
この時代、特にこのご時世にこの僕のように、間違った神観を持っていると、キツイと思いますね。
どうして神さまは私をこんな過酷な事を〜と、そのように考えると恐ろしさのあまり土に埋めて無難にやり過ごしてしまいかねません。
でも、一タラントのしもべは、銀行に預けておけば利子がつくという選択肢もあったのですね。
銀行に預けておけば良かったという神さまに出逢って、ちょっとびっくりした記憶があります。
斬新というか、預けるだけでいいんだという一タラントのしもべにとってはさほど大変ではない話だし、という事で神観のようなものが変わるきっかけになりました。
間違った神観は確かに間違った聖書解釈に繋がり、無駄に苦しい信仰生活になりますよね。
ただ銀行に預けさえすれば良かったのに。私はここがツボなんですよ(笑)
B子
1タラントンをもらったしもべは、銀行の存在を知っていたのだろうか?
その銀行は、利息までついて安心して預けられるところだという知識・情報が入っていたのだろうか?
と、あらためて考えました。
私は、最初に読んだとき、イエス様の時代には、既に銀行があったのだ、と思いながら、読み流したのですが、A子さんの反応から、この銀行は何を象徴しているのだろうか?と考えるようになりました。
伝道者、宣教者、働くクリスチャンたち?
預けるだけでよい、とは、信じさえすればよい、との意味か?
次に利息とは?
伝道活動というダイナミックな働きをしなくても、(あるいはできなくても)信じさえすれば(預けさえすれば)ついて来る利息。では、利息とは、何の象徴だろうか?
利息付の信用できる銀行が、身近にあるなら、そのことを、沢山の人が知っているなら、土に埋めて保管するより、お得、ですよね。銀行の存在を知らないなら、預けることはできない。
お知らせしなくちゃ(笑)
それが伝道すると言う働きになるのかしら?
A子
とりあえず「銀行」のことについては、横に置いておいて、ポイントについて、おさらいさせてくださいね。
タラントはすべての才能と賜物です。
教会に託されたタラントは、特に聖霊によって与えられたものです。
一タラントとは、6000日分のお給料に当たるそうですから6000万円ほどかしら?
私たちが思う以上の金額であっても、この話の中では、「少ない」賜物である事に変わりありません。(コリント第一12 :8-11は参考になります)
また、このたとえ話は、31節以降の「羊とヤギの話」に一番似ているように思います。
イエスさまは、二種類のクリスチャンがいると教えます。羊とヤギ。
このタラントのたとえ話も、与えられた賜物をどのように正しく用いるか?を問われているのだと思います。
わたしたちはとんでもない代価を支払って買い取られたのです。
イエス様の十字架によって。すべての人類はこの無限の代価によって罪から贖われた、言いかえれば、「すべての人は神の所有です」無限の代価から見れば一タラントはごく僅かです。
一タラントだろうが五タラントだろうが、なんであれ、信じさえすれば良いというクリスチャンを神は望んでいません。
羊とヤギの話であればヤギに私はあなたを知らないと言われます。
神様は高い目標を目指して、つまり自分に与えられたすべてを神の栄光のために奉仕すること、献身を求めております。
どのようにしたらそれができるか?
このタラントのたとえ話では、どのようにタラントを増やす事が出来るか?
それを祈り求めて聖霊から知恵をいただきながら生活しなさい。
それは決して楽な道ではないけれど、聖霊の助けにより結果的に天国に入るあなたの品性が完成されていくのだということですよね。。
B子
聖書の読み方も勘違いして読むなら、ピントがずれてきますね。
それは、単なる解釈の違いよね~と笑って済ませられることではありません。
永遠の命か、永遠の滅びか、どちらかひとつであって、その中間はないのです。
A子
その意味においては、何もしないで土に埋めてしまったのは、問題でした。
自分は、神のために働く能力がないと言って、クリスチャンの働きをしないことの弁解をすることは神さまを悲しませます。
正しい神さま観、それは、イエスさまが支払った代価、十字架の購いを良く理解して、聖霊を求めて祈るなら失敗をおそれず、すでに方法は神が備えてくださっていた(このたとえでは銀行に預ける)という事を信じきっておゆだねして、クリスチャンとしての働きを全うできるようになるのではないでしょうか?
しかし、あらゆる意味でおそれる私がいるのですが、どんなに小さな義務でも忠実に果たす事から神様の祝福があり豊かに導かれる事をおそれずに信じたい。
賜物は、最初は少ないんですけど、神の祝福によって増えていくものだということに気がついたのです。
いただいた資金を上手に生かして何か大きな事業をすることができなくても、まずは銀行に預けて少しでも増やす。その方法なら、一タラントあるかないかの私も神さまのお役に立てるかな?
その意味においては、何もしないで土に埋めてしまったのは、問題でした。
自分は、神のために働く能力がないと言って、クリスチャンの働きをしないことの弁解をすることは神さまを悲しませます。
B子
自分に当てはめたらどうなるか、は、それぞれですね。
自分の思いで読んでしまうならば、前進というよりも、後退か、低迷か。
危険なのは、御霊によらない当てはめ方で読むことではないかと思います。
ところで、イエス様の譬えのお言葉に「銀行」が出てきたのは、ちょっとびっくりしました。
すでに銀行があったのですね。さすが〜ユダヤ人。
A子
そうなんです。さすがユダヤ人ですよね。
財産管理というような意味合いの銀行システムがあったと聞いております。
A子と B子の対話を読んでいたC子がおもむろに登場しました。(笑)
C子
タラントンを地の中に埋めた僕。土とはアダマ=人。
もしかしたら、これは「自分のタラントを人間的な利己的な思いで持っている人」を表すのだろうか。
すると、銀行は神様。
たとえ自信がなくても自分を神様にあずければ、神様はその人の存在そのもので栄光を表してくださるのかもしれない。
もし、私の健康が強く損なわれ、自分には何もないと悲しくなっても、それを神様にゆだねることで、神様はそのことを通して、ものすごくよいわざを表してくださる。それが利子?
5と2と1。それぞれの人が賜物を神様によって用いることで、神様がそれを通して、それが合わさったすばらしいハーモニーを奏でられるのかもしれない。
神様の一番望むご計画はそれなのかもしれない。
神様は一人一人の創造の時から、そのハーモニーを全部考えておられるのかもしれない。
B子
アーメン! 素晴らしい結論に導かれましたね。まさに「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)この御言葉の成就ですね。
A子
銀行に預けることは、まさに信仰による義だなぁと、いつも思っていたから、「銀行」にだわっていたのです。神を信頼しきったときに、神さまがその人の存在そのもので栄光を表してくださる。
まとめてくださってありがとうございます。
マラナ・タ
「デボーションハーモニー」として、ブログに投稿していいですか?
もちろん!もっと多くの人とも分かち合いたいですよね。