ごきげんよう!さわこです

  教会への途中、こぶしの花ざかり

 

 

去年の今日、2018年3月21日の記録より

 

そうだ!!! そういう意味ではなかったか!!!と思った聖句。

 

ヤコブは、ヤボクの渡しで神の天使と戦って

「私を祝福してくださるまではあなたを放しません」 と言った。

 

この祝福とは、

「イスラエルを通して神様が与えておられる福音の真の意味を分からせてもらうまでは、あなたを離しません」

ということではなかったか。

 

 

私たちは、祝福の意味を人間の俗的な意味で考えてしまう習性があります。

 

健康、経済、才能、チャンス、良き配偶者、良き家庭、良き仕事・・・エトセトラ

それらに恵まれて、それを用いて神様にお仕えできる信仰生活が与えられますように。

そして、この世の人生において成功することで、聖書の神様を伝道できますように。

そんな思いで、祝福を捉えているかも知れない。

 

あるいは、信仰や世のお付き合いのリップサービス的常套句として便利に使っているかも知れない。

 

そうだったら、キリスト教もご利益宗教と同じではないか。

それでいいのかしら?

聖書は、現世でのご利益宗教を教えているではないはず。

 

祈りには力があると多くのクリスチャンは言います。

 

うまくいった時、たとえば国家試験に合格した人がこう言いました。

「教会のみなさんが祈ってくれたからです。皆さんの祈りのおかげです。私の実力ではとうてい無理でした。」

 

自分の努力を隠すという謙遜の精神?

神様の力は人知を超えていて、祈りによってその偉大な力が与えられる?

「努力しました。頑張りました」ということは、傲慢?自慢?みっともないこと?

信心する者が決して言っても思ってもいけないこと?

 

努力やがんばりをしたことを隠して、神様や皆さんのおかげだと言う。

そういった謙遜の心での祈りを神様は祝福されものだという宗教思想があるのかな?

どうやら祝福とは、ずいぶんと取り違えられているのではないかしら。

 

祝福とは、神を正しく知ること、愛すること、主に従うこと。

 

こども讃美歌「日々の祈り」に歌われていることそのものだ。

と、分からせてもらった瞬間でした。

 

そして、 その場所は、なんと浴室。

水のある場所。バプテスマに近い(笑)

 

ちょっと笑えます。

 

さらに付け加えるならば、アブラハムの息子イサク、その息子ヤコブ、

その子孫から、イエスが生まれました。

ヤコブが生まれなかったら、

子孫を残す前に死んでいたら、イスラエルの民から祝福そのものであるイエスの誕生はありませんでした。

 

教会からの帰り道

やまなみのグラデーションがきれいでした。

 

マラナ・タ

♬ 日々の祈り わたしの願いは  

  神を知ること 愛すること 

  主に従うことです