ごきげんよう!さわこです

今日は3月7日なのですけれど・・・

3月3日ひな祭りの日のデボーションが続いています。

 

ぼんぼりのような菜の花

 

この花の名前は知らないけれど、赤いぼんぼり

 

紅いぼんぼり 黄色いぼんぼり

ひな祭りにあわせて 咲きにけり

自然の神秘の 粋な計らい

 

「人間は清く聖なる者として造られたが、反逆によってサタンの特質を持つ者となった・・・・」

    (2020.3.3 デボーションの助けとしての読み物「今日の光」より)

 

私の感想です。

地の上に生きる私たちは、誰ひとりとして、キリスト以外の力では、サタンの特質を脱ぎ捨てることはできません。

そんな人類のために、キリストは人として世に来られ、律法に従い、病と悲しみと罪を担う方であることを啓示されました。

サタンの特質を持ってしまった人類すべてをサタンの縄目から解き放つためであったのです。

 

このことを信じられますか?

よくキリスト教は性悪説、○○教は性善説なんて、評論されますが、それは人造の学問の諸説に過ぎません。

 

「聖霊によらなければ、誰も、イエスは主であるとは、言えないのです」1コリント12:3

「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初め判断できるからです」1コリント2:14

 

この「霊」とは、聖霊、神の霊のことです。
聖書に書かれていること、聖書の神様のこと、福音は、人間の知恵では分からないのは当たり前ですから、信じられないのも当たり前。


ところが、このことを知りたいとの思いを聖霊が起こしてくださる不思議な時(神の時)があるのです。

その時の風に乗るなら、神の霊が分からせてくださいます。私もそうして、分からせてもらった一人です。

 

 

東の天空に薄く透けるように見えます。

上弦の シフォンの生地のごとき 昼月みたり

 

信仰の友の感想

人は、サタンの特質、つまり罪の傾向を持っています。
罪は犯して初めて罪だから、生まれたての子には罪がない、という解釈をされる方がいますが、サタンは愛の秩序である神の律法に反逆し、その性質アダムとエバによって、全人類に受けつがれました。

このことは、理屈や人の知恵ではわかりません。
自分自身も、今まで、どうにもならない罪に悩み苦しみました。

最近も、自問自答しながら自分を追い込んでしまう辛い日々。
それでも知りたいと願う不思議な時、その時の風には、しっかり乗りたいと思います。
辛い、辛い、自分の思いを主イエスにひたすら打ち明けていたら、今までに感じた事のないほどの悲しみが私を襲いました。それは、

私の苦しみではなくイエスさまの悲しみのごくごく一端を垣間見た感じなのです。本当に聖霊によらなけば、すべてあり得ない事ですね

 

 わたし

「それは私の苦しみではなくイエス様のごくごく一端を垣間見た感じなのです。本当に聖霊によらなけば、・・・すべてあり得ないことです」

あなたのこの言葉、その見事な表現にアーメン。

聖霊により、この体験を持つか持たないか、信仰の分水嶺だと思います。

 

ここを通ることは、自我をお捧げする招きに応じることのできた者ヘの祝福ではないかと思いました。

それでも、イエス様の悲しみの一端に触れたに過ぎないのですね・・・


イエス様の悲しみの血潮に濡れたその狭い道を見過ごしてしまう人と、

見過ごせないまでの境地に引きずり込まれてしまう人と、

分かれるのかもしれないなぁ・・・

 

    友

山上の垂訓の冒頭の言葉 『悲しむ人は幸いです。』
信仰のはじめの頃はよく意味がわかりませんでしたが、そのうち、罪に対する悲しみであることが体験的にわかりました。正しい信仰を持っていくほど、自問自答しながら悲しむのかもしれません。

 

 わたし

イエス様のお悲しみに触れていくにつれて、私たちの信仰の質は変容していくように思います。

そこで、分かりあえる信仰の友と、表面的な友との棲み分けや距離感の設定が、自然に違いが起きて来るのじゃないか、そんなふうに感じます。

しかし、それもまた、天国への旅の途中の出来事の一時的な現象に過ぎないのですけれど。

 

3月になると、桃の花ざかり

♬お花をあげましょ、桃の花

 

マラナ・タ

黙想のデュエットの友がまたひとり。

神様の時の風に乗って舞い降りてきました。