ごきげんよう!さわこです
青空に 雲たちたるや
午前七時の わが北山よ
今朝、3時前に目が覚めました。
ちょっと早起きしすぎましたけれど、
今朝の通読を開始。エゼキエル18章。
「イスラエルのことわざ 『父たちが酸いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』 というのはどんなわけか」との問いかけから18章は始まります。
私たちは、酸っぱいぶどうの諺と言えば、イソップ物語を思い出すのではないでしょうか。
手の届かない所になっているぶどうの実を見つけた狐が、「あのぶどうは、酸っぱいぶどうさ」と言って諦めるお話。食べもしないで、自分には出来ないことをしないとの言い訳。しないことの正当化。
日の出が少し早くなりました。
祈りを終えると、もう少し日が高くなり
イソップ物語では、こういう意味で用いられていますが、
エゼキエル書では全く違うのです。
「親の罪は子に及ぶ」との因果応報論でも、
聖書の酸っぱいぶどうの諺は語られてはいないのです。
因果応報論思想は、日本でもイスラエルでも昔からありました。
日本では浄瑠璃で ♫親の因果が子に報い♫ と唄われて来ました。
イスラエルでは、生まれつき目の見えない男を見て、イエスの弟子たちが尋ねました。
「この人の目が見えないのは、親の罪か本人の罪か」(ヨハネ9:1-3)と。
エゼキエル18:3
「主なる神は言われる。わたしは生きている。あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない」と書いてあります。
預言者エゼキエルの生きた時代より遥か昔から、良くないことの全ての原因を、「父たちが酸いぶどうを食べたので子供たちの歯が浮く」と教えられていたことが分かります。
神の福音を伝えるために、選び出されたイスラエルの民に、こうした神の意思とは異なる思想が植え付けられたのは、何故でしょうか?
それこそ、原因となる出来事があるのではないでしょうか。
エゼキエル18:4
「見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。
罪を犯した魂は必ず死ぬ」
ここには、死は罪の結果としての、原因と結果の法則が記されています。
不節制をしたら病気になるという類です。
高いビルの屋上から飛び降りたら死ぬという類です。
エゼキエル18:20
「罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する」 と。
つまり、永遠の死からの救いは各自の生き方の選択によるのであり、親の選択とは関係ない。
個々の選びの原因と結果の法則であり、因果応報論ではないのです。
イエスの弟子たちに代表される当時のユダヤ人たちの間では、悪いことが人生に降りかかるのは原因がある。結果から遡り悪を犯した揺るぎない原因を推論し悪人罪人と決めつける思想が蔓延していました。
イエス様の答えは「誰の罪でもない。神の栄光があらわれるためである」
であり、イエス様は生まれつき目の見えない人を癒やされて目を開かせました。
イエス様の使命は、旧約聖書の至る所に記されている父なる神の愛の教えを、子なる神ご自身があらわすことでした。そうして、ユダヤ人たちから、誤った神観を是正することでした。
23節
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」
30節
「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなた方を、おのおののおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす」
31節
「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか」
32節
「わたしは何人の死をも喜ばないのであると主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」
エゼキエル18章は、
罪びとが悔い改めて神に立ち帰るならば、永遠の滅びから救い出されて、新しい心と新しい霊を得て、神と共に永遠のいのちを生きられると書いてあります。
さて、スタディバイブル旧約1098ページには、
イスラエルに誤った思想を注入した侵入者はサタンであると
書いてあります。
以下
アダムに向かって、神に服従することなしに命を約束したのはサタンであった。
エデンの園で蛇がエバに言った「あなたは決して死ぬことはないでしょう」という言葉は、霊魂不滅について語られた最初の説教であった。
しかもサタンの権威に基づくこの宣言が、キリスト教界の講壇から繰り返し叫ばれ、エデンの園で我々の祖先が受け入れたように、人類の大部分は簡単にそれを受け入れているのである。
罪を犯す魂は死なないで永遠に生きる、という意味の霊魂不滅の神学はサタンから来ています。
・・・感想・・・
「魂」と書かれている用語は、多くの日本人にとって誤解されてはいないでしょうか。
肉体と魂と分けて考えられてはいないでしょうか?
肉体が死んだら、肉体から魂が抜け出して、浮遊し、神様を信じた人の魂はすぐに天国に行き、信じない人、悪事を働いた人の魂は、道に迷っているので、生きている者たちが、○○しなくてはならない儀式がある、また地獄に行く・・・等々。
魂とは、シンプルに言うならば、
それぞれ心を持つ一人ひとりの肉体を伴う全人格、全存在のことの総称。
感情、思想、考え、感覚、といった肉体のように実体は持たなくても、その人が生きている間は、その人の個性、性格、価値観としてその人を形作るもの。
聖書は、死は眠りであると書いてありますから、人の思いも思考力も、肉体の死と共に眠ります。
いつまで?
イエス・キリストの再臨なさる時までです。
このことに疑問を持つならば、聖書を調べてください。
聖書に書かれていない神学の解説書によって聖書を学ぶと、
人造神学に洗脳されますから、用心してください。
聖書の最大の解説書は聖書です。
さらに、サタンは人間以上に聖書を知って人を騙しますから、聖霊なる神様の助けを求めて、謙遜な素直な心で学べますようにと祈ることを決してお忘れになりませんように。
マラナ・タ
早く起きすぎて、その日の聖書通読をして恵まれました。
もう少し寝よう、との誘惑に負けなくてよかった。
神様ありがとうございます。
おかげで、旧約から新約を貫く神様のみこころに触れることができました。