ごきげんよう! さわこです。
今朝。7時前の北山
2015年11月11日の記事を紹介してくれていました。
編集して再投稿します。
曽祖父の所属していた教会での朝祷会で一人の女性と祈り合った時のことです。
丸4年前の出来事で、もうすっかり忘れていましたが、読んでいるうちに思い出しました。
こんな大事なことを、忘れてしまっていたなんて・・・。
毎日のように次々と祈りの課題が出てきます。
何もかも覚えていることはできないのが実情です。
朝祷会が終わって出席者が帰られた後、
彼女は、残念に思ったある出来事をお話しくださいました。
それは、彼女が、自転車の女子高校生と若い女性の軽乗用車とが接触事故を起こした場面に出くわした時のことでした。
たいしたことはなかったようで、高校生は「だいじょうぶです」と言って、走り去っていったとのこと。
「目撃した自分は、何も言えないままだったことが気になってしまった」とおっしゃるのです。
そのときには、何もなかったかもしれない。
しかし、時間が経つと、打撲やら思いもよらない所の怪我に気づくかもしれない。
自転車も、故障しているのに気づくかもしれない。このままで、よかったのだろうか・・・・
でも、その瞬間、言葉も出てこないし、どのように対処したらよいのかも思いつかなかった・・・」
と反省の気持ちをお話しされたのでした。
私も、同じような場面に出会ったら、彼女と同じだったことだろうと思ったのでしたが・・・
「そうだ!私たちクリスチャンには、
イエス様の御名によって祈ることができる!」
と、お話を聞きながら、気づかされたのでした。
私たちは、世の中のシステム上の知恵って少ない。
交通事故にしてもその対応の仕方って、とっさに出てこない。
大きな事故だったら、すぐに警察に電話をするとかは思いつくけれど、
些細に見えることだったら、何をどうしたらいいのかわからない。
もし、自分が婦警さんだったり、保険会社に勤務していたり、
こういう事情についても知識があれば、すぐに手助けは出来ると思うのですが、
私たちはそういう知恵ってとっさに出ない。
昇る朝日
だから、私は、毎朝の祈りにこのことを祈ろうと思ったのでした。
「神様、今日、出会う様々な出来事に、
対応するための知恵をお与えください。
適切な言葉、適切な行動を教えてください。
そうして隣人の助けができますように。
あなたの御名が讃えられますように」
二人でこうして語りあって祈り合って、
そうしてお別れして家路につきますが、
その道中も何が起きるかわかりません。
厳粛な気持ちになりました。
彼女も、
「たいせつなお祈りに気づかせていただけてうれしいです。
わたしも毎朝の祈りに加えます」 とおっしゃいました。
そして、ふと、イエス様のお話になった「不正な管理人のたとえ」を思いました。
世の人は世的な知恵を熱心に用いて、自分の身の立つように考えます。
世の知恵の不足している私たちは、一目散に神様の知恵を求めて頼るしかないのです。
この例え話は、イエス様が再臨に、備えることを、世の人の自己愛の熱心さに譬えて語られたのだと理解してきましたが、
私たちは日常生活の中でも、互いに身の立つ知恵を熱心に祈り求めて神様に信頼していくことも教えてくださっていたのでは、と思ったのでした。
私には世の中の知恵が不足しています。
世間知、経験知は、足りないことが多いのです。
しかし、世の中には、そうしたことの知恵者は多いのです。
そういう人に教えられ助けられることも多いのです。
神様は、私たちの祈りにお応えくださって、必要に応じてそうした世の中の知恵者を助け手としてお与えくださることもあるはずです。
そして、その方との感謝の交わりに中に、神様の霊が働いてくださり、福音を伝えるきっかけとなっていくこともあります。
そんな気づきも、また彼女と分かち合うことができました。
マラナ・タ
朝祷会のあと、ちょっとした時間にこのような信仰の証しや体験や反省を語りあうことで、
聖霊様がますます働いてくださり、信仰の交わりを深めてくださいましたことを感謝しました。