ごきげんよう! さわこです。

 
 
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」 エペソ5:14
 
パウロの書簡は、すべての信仰者に向けて書かれ照らされいます。
パウロは信仰者に向かって「眠りについている者、起きよ」と呼びかける必要がありました。
 
信仰者はすぐに眠ります。ゲッセマネでのイエス様の3人の弟子たちもそうでした。
 
十人のおとめたちも眠ってしまいました。しかし、5人のおとめは霊的な死にまで至っていなかったので救われました。(マタイ25:1--13)
 
O・ハレスビーは
「多くのクリスチャンたちが何年も眠っています。残念なことには、知らずに眠っていることです。
肉体的な眠りについても言えることですが、いつ眠ってしまったか、正確には誰も知らないのです。
霊的な眠りについても、気づかないうちに素早くやっで来ます。
この世的な考えが入り込み、罪について鈍感になり、無防備になり、祈りは習慣的でおっくうにはなります。
眠りは全く知らないうちに侵入して来ます。」と、書いています。
 
その時、
「祈ることを義務的に感じているのね。では、祈らなくてもいいのよ。
義務的、形式的な心のこもらない祈りを神様は喜ばれるかしら。
イエス様が祈って下さっているから、神様はあなたのすべてをご存知だから、
祈れないことも分かってくださるから、あなたのしたいようにしたらいいのよ」と、
 
祈らないこと、祈れないことを、受け入れて、
 
「あなたはそのままでいいの。ありのままのあなたで愛されているのですから」
と言ってくれたら、どうでしょうか。
 
このような慰めごとをささやいてくれる人がいたら、どうでしょうか。
私の気持ちを分かってくれて寄り添ってくれる、とうれしくなり安心するでしょうか。 
 
そこで、祈る気持ちが湧き起こるなら申し分ないことです。
しかし、祈ることが、その人から次第に遠のいて行くきっかけになったら、機にかなった助言となったのでしょうか。
 
受容されるところに、聖霊が働かれるの言うのでしょうか。
そこが私には疑問点です。
自分の感情の心地よさを優先することは、聖霊様をお招きすることにつながるのでしょうか?
 
 
祈れない、祈らなくても、赦されていると思う時は、
いつの間にか、眠りに入ろうとしている危機の時ではないでしょうか。
 
また、祈れなくなったという人に、ハレスビーの文章を紹介したりすると、
「私の祈りにケチをつけられた、受け入れてもらえていない」的な気持ちになる人もいます。
人は、自分の祈り方に無意識のうちに、自信と誇りを持っているものです。
 
 
イエス様の弟子たちが「主よ、祈ることを教えてください」とは、
何と謙遜な願いの言葉であったのか、と思います。
 
イスラエルの民、ユダヤの選民意識を持つ民ならば、祈ることを知らないわけではない。
しかし、イエス様に出会って、自分たちの祈りに対して何か足りない、何かおかしい・・・って感じたのだと思います。
 
私たち、今のままでいいのか?ありのままのワタシでいいのか?
そういう自分の在り方への自己吟味を持つか持たないかって貴重なことではないかしら。
 
自己受容、自尊感情は、とても大切なこと。
「自分を愛するように人を愛しなさい」とイエス様は仰いました。
「あなたは高価で貴い」とイザヤ書でイエス様は仰いました。
しかし、自分を振り返る省みることをしなくていいわけではない。
反省が、過剰になったりして、自虐的になるのはもってのほか。
 
その、バランス感覚と調和を神様に求めます。
どちらかに偏ってしまわせようとする勢力だってあるのですから。
 
自分を否定されたように感じるとき、自己防御に走りたくなるのはよくあること。
それって、無意識のうちの自己擁護なのかもしれません。
 
自分の気に入る気に入らない、それがセンサーとなってしまうと、
知らず知らず、神様との間の壁となるブロックをひとつ積み上げているのかもしれません。
 
 
マラナ・タ
今朝はハレスビーの「みことばの糧」から、思い巡らせる時を頂きました。
神様、ありがとうございます。