ごきげんよう!さわこです。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない(コリント第一12:3)
とありますように、イエス様を私の主と呼び、救い主と受け入れ、
イエス様のお名前によってお祈りできるということも、聖霊の神様のみ力によるのです。
私がすぐに臆してしまい、信仰が弱くなるのは、私のうちで聖霊様の燃える炎が弱いからなのでしょう。
聖霊の満たしを妨げるものは「疑い」「恐れ」「自分はふさわしくないという思い」だそうです。
ですからこう祈ります。
「わたしの心にイエス様、お入りください。
そして聖霊様で満たしてください。
あなた様の御霊がわたしの心に充満するなら、
力と愛と慎みの霊に満たされて、
『疑いの霊、恐れの霊、ふさわしくない私と思う霊』は
入る隙がありません。
天のお父様、どうか、わたしを聖霊様で満たしてください」
そしてイエス様が祈ってくださっている祈りを思い続けるのです。
イエス様が十字架上で祈られた祈りです。
ルカ23:34「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」
もう一つは、ペテロのつまずきを予測しておられたイエス様がペテロのために祈られた祈りです。
ルカ22:32「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」
そうです。私たちがどんなに情けなく惨めな状態になっていたとしても、
イエス様を救い主と信じる信仰をもっているはずなのに、
それにふさわしくないのじゃないのかと、
神様の栄光を汚しているだけじゃないのかと、
打ちのめされそうになっていても、
大丈夫なのです。
なぜなら、イエス様が今日も、今も、祈ってくださっているからです。
そして私たちはイエスの御霊であるご聖霊さまをいただいているからです。
神様は「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」マタイ12:20、イザヤ42:3と
約束してくださっているのですから、どんなに信仰が薄くても、小さくても、弱くても大丈なのです。
そんな私のために、イエス様は十字架にかかってくださり、
三日目に甦られたあと、多くの人々に現れ、天に昇られたあと、
私たちがみなしごとならないように、助け主であるご聖霊様を送ってくださっているのですから。
私たちは天のおとうさまに、御子イエス様のお名前によって、ご聖霊さまに助けていただいて、
祈るという素晴らしい力あふれる特権をいただいているのです。
詩篇62編の5節6節 リビングバイブル訳
「私はじっと黙って、神様から救いの手が差し伸べられるのを待ちます。
救うことができるのは神様だけだからです。
確かに、神様だけが私の岩、私を救うお方、そして私のとりでなのです」
マラナ・タ
神様からの平安が、傷ついた葦であり、くすぶる灯心である私たちを包んでくださいますように。