ごきげんよう!さわこです。
イエス様は
「何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)
と言われました。
祈り求めたことが、現実的に実際的にきかれた人は、この聖句を掲げます。
病気が治った。理想的な配偶者が与えられた。子宝に恵まれた。
望む大学に合格した。望んでいた所に就職が決まった。
こういう場所で、こうした間取りの、住まいを与えてくださいとの祈りにぴったりの家が与えられた。
宝くじが当たった。
そういういくつもの証を持っている人に出会いました。
その時、私は長年の祈りがどれもこれもきかれなくて辛い気持ちでいました。
「あなた、“マルコ11:24”をそのとおりに信じて祈っている?祈っていても信じ切っていないから、あなたの祈りはきかれないのではないの?真剣さが足りないのではないの?祈りそのものが足りないのではないの?もっと祈らなくては。きっと無理だとあなたは諦めているのではないの?信じて祈りなさい。もっともっと、信じて祈りなさい。そうすれば、必ず祈りはきかれるのですから」
心の中で思いました。
私の祈りを神様は聞いてくださっているのは間違いないの。ただ、あなたのように、自分の願う形で応えられていないだけなの・・・でも、「ちゃんと祈っていないからかなえられない。祈りが足りないからかなえられない」と、答えられた祈りを次々と証する人に言われたら、そうかもしれないと不安になってしまいました。
この励ましは、怖くさえありました・・・自分はクリスチャンとして失格なのだ。
神様に受け入れられていないのだ。祈っても祈ってもどうにもならないのだから・・・
EGホワイト著「キリストへの道 第6章」を読んでいました。
「私たちの罪を清め、神の子らとして清い生活を送らせようとなさるのは神の御心です。
神の御旨です。神の御心であるその祝福を願い求め、それを受けたと信じて神に感謝してもよいのです。」
神の御心とは、「私たちの罪を清めて、清い生活を送らせようとなさること」!!!!!
目からうろこが落ちたようでした。
「自分の願い通りのかたちで祈りが答えられたということは、神の御心であったのだ」と言うわけではない、と分かったのでした。
きかれるのは、人の祈りではなく、“神様の御心”である祈りなのです。
ニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に患者が書いた有名な詩があります。
より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私たちは神様に、初めは具体的なことを願い求めます。
しかし、祈り続けることによって、その祈りは神様に引き上げられて、
次第に御心に適う祈りへと変貌してゆくのではないでしょうか。
この詩はそうした祈りの変化を良く表しているように思います。
神様に泣き言を言い、愚痴を言っているような祈りが
最後には神様への感謝と讃美に変えられて行くという経験を
長い信仰生活の中で誰しも体験していくのではないでしょうか。
マラナ・タ
諦めることなく、祈り続けるうちに、
私たちの価値観を神様が変えていってくださる。
御心に適う祈りへと軌道修正してくださっている。
新たに変えられていく、成長させて行ってくださる神様の再創造の力に
感謝と讃美をおささげします。