ごきげんよう!さわこです。
昨日の通読箇所が今も心に響いている。
ルカによる福音書13:29、30
人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。
デボーション・・・
イエス様は、地上人生をユダヤ地方でお過ごしになられた。
イエス様は、先ずユダヤ人から福音をお伝えになられた。
勿論、異邦人たちの地にも行かれた。
神の救いの情報は、神の言葉を与えられたヘブライ人から始まったが、ユダヤ人だけ限定ではなかった。
イスラエル12部族のうちアシリヤに捕囚となった10部族は行方知れずになって歴史の波間に消えてしまった。
ユダ族とベニヤミン族と祭司であったレビ人たちは、バビロン捕囚からエルサレムに帰還してユダヤ人と呼ばれるようになった。
イエス様が人としてお生まれになったのは、ユダヤの国がローマ帝国に支配されていた時代のこと。
ユダヤ民族たちは神に選ばれし特別な民という選民意識が強かった。
天地創造の神はすべての被造物の創造主。
エジプト人もバビロン人もアッシリヤ人も、すべての人間は神様に愛をもって造られた。
だから、神から離反したすべての人間は神様に立ち帰るように招かれている。
旧約聖書を読んでいても、異教徒でありながら異邦人でありながも神様に立ち返った。
そういうことが分かって読むと「人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます」と言う聖句は、ユダヤ人がユダヤの東西南北の地から集まって来たという意味ではないことが分かる。
アッシリヤに連れ去られ、アッシリヤ帝国の崩壊と共に四方に散って離散していった北イスラエル王国の10部族が東西南北からやって来るとも読み取れるし、イスラエル民族が古来から信じて来た創造と贖いの神を、自分も信じると選び取った異邦人たちも東西南北からやって来るとも読めます。
神様に贖われる民、救われる民は、ユダヤ人だけでもなければ、自称クリスチャンだけでもないことがわかります。
贖い主なるイエス・キリストなる神を信じてキリスト様の品性に変えられていなければ、神の国にふさわしくありません。
「後の者が先になり、先にいる者が後になる」とは、神の国に行ける者だと思い込んでいた人たちが行けなくて、こんな私が・・・?と思う人が神の国に行っているのかもしれません。
誰が行けるか誰が行けないかは、私たちが憶測してあれこれ言うことでも思いわずらうことではありません。
申命記29:29「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみ教えのすべての言葉を行うためである。」
現されたこと、聖書によって、私たちの理解できることは書き記されています。
聖書によって私たちは神様のご品性ご性質を教えて頂けます。
助け主なる聖霊様が導いてくださいます。私たちの理解力を啓発してくださいます。
私たちがみ教えのすべてを行うことができるために、神の御子であるイエス様が地上人生を送られました。
そして、天にお帰りになってからも、弱い私たちのために執り成しの祈りをささげてくださっています
マラナ・タ
イエス様の十字架の御愛に報いるべく人生を歩ませていただけますように。
明日、安息日は、洗足・聖餐式です。